楽しむことは不真面目なのか?
こんにちは!Jimmyです。
一昔前までは、何をするにも、真剣なときに笑っていることはよくないこととされてきました。
楽しんでいるということは、不真面目であることに非常に近かったように思います。
一方、現代の私たちが、楽しむことと不真面目さはイコールかと聞かれたらどうでしょう。
おそらく、多くの人は、イコールではない、同じとする考え方などはナンセンスだと思うのではないでしょうか。
頭の固い古い考え方であると、私も瞬間的にそう思いました。
しかし、本当にそのような考えのもとで行動しているでしょうか。
私自身、よくよく考えると、根底には、楽しむことと不真面目を同一視するような価値感が、どこかに埋まっているように思います。
理由は単純です、自分もそんな環境で育ったからです。
改めて、楽しむことと不真面目さはイコールではない、切り離して考えるべき概念です。
当たり前のように聞こえますが、日本人の根底には意外と強固な価値感があります。
今回は、少し立ち止まって考えるための回にします。
誰もが無意識のうちに、楽しむことを不真面目と捉えている結果、気難しい社会を構成しているという側面は無視できません。
要注意!実は自分も?楽しむことをよしとしない文化
以下のような状況で、楽しむことに対してネガティブな反応をしたことはないでしょうか。
仕事は辛いものだ!
今でも、少なくない人がこのように主張します。
自身がそのように考え仕事に取り組むこと、これ自体は問題ではありません。
問題は、仕事を楽しんでいる人(特に後輩や部下)を見て、「まだまだ辛い経験が足らんな」と思ったことがないかということです。
「楽しんで、笑っていたり、余裕を持っているようでは成長はできない」
このような発言をする人もいます。
さらには、楽しんでいるという事実に対して、”気に入らない”と考える人もいるように思います。
仕事中に笑っているだけで、「笑ってんじゃねーよ」と言われたことがある人もいるかもしれません。
これらは、楽しむことはよくないとする考え方がどこかに残っている証拠です。
私の場合、ふと自分を振り返った時、若手時代には、そのような先輩や上司を疎ましく感じていたものの、
いざ自分が先輩、上司の立場になったとき、笑っている若手社員を見て、若干の否定的な感情を持ったことも事実です。
いつでも、余裕なく、逼迫して、難しい顔をしていないといけない。
そんな身も蓋もない考え方が、どこかに染み付いていたのかもしれないと反省した瞬間でもありました。
自分も理不尽な思いをしてきたのだから・・という考え方も、どこかにあったのかもしれません。
自粛はつらいものだ!
自粛警察という言葉が、コロナ禍で話題になりました。
日本では、ロックダウンのような強力な法的措置で、行動を縛ることができない一方、このような相互監視が機能していたようです。
行動を制限されることは、多くの人にとって辛く不便なことに変わりありません。
ストレスの溜まる期間です。
あるアンケート調査によると、自粛をしない人に対して、腹立たしいと答えた人が約6割いたそうです。
もちろん、単純に感染を拡大させたくないという観点からそう答える人もいるでしょう。
推測でしかありませんが、この腹立たしいという感情には、自粛をせずに、自由に楽しんでいることが許せない、
あるいは、自分が我慢しているのに、楽しんでいてずるいという気持ちも大きいのではないかと思います。
もはや、コロナ拡大の恐怖や懸念というより、楽しんでいる(と思われる)人への腹立たしさが勝っているようにも感じました。
どこか問題がすり替わって、感染対策をしっかりしているか、自粛しているかではなく、楽しんでいないかで判斷されるような場面も少なくなかったのではないかと思います。
負けて笑っているなんて!
私も昔、スポーツ、部活などの試合後にこのように言われました。
「負けて悔しくないのか、負けて笑っているなんて考えられない!」
今でも、スポーツニュースなどの記事を見ていると、このようなコメントをする評論家はいます。
負けて笑っていることが、チームの成績が低迷していることの原因であるかのような口調も珍しくありません。
プロ野球などは、1年に140試合以上もあります。
オリンピックやWBCのような、一発勝負の大会ではなく長期戦です。
次に繋がる負け方もあれば、失敗したものの、良い感触が残った試合だってあるでしょう。
そんなときは、個人個人によっては、ある程度の達成感や充実感があって然るべきです。
每日每日、勝ったら喜び、負けたらうなだれるという単純なものではないように思います。
評論家のコメントに同調している人も少なくありませんが、サラリーマンの仕事に置き換えたらどうでしょう。
每日のように、様々な顧客に提案する等、やるべき案件はたくさんあります。
採用されなかったからといって、毎回落ち込んでいる暇はありません。
むしろ、全力を出し切り、課題も見えたのであれば、結果は残念でも、次に繋がる部分も大いにあるでしょう。
そもそも、悔しがっているから何かを真剣に考えているとは限りません。
むしろ仕事においては、沈んだ雰囲気ではよいアイデアも出ず、活溌な意見交換もできないでしょう。
ひとくくりに、負けて笑っているからだめだというのは、やはり強引と言えるでしょう。
それでも多くの人が、自分のことを棚に上げて、スポーツ評論家に同調しているのも事実です。
何にせよ、悲壮感だけでは、良い発想は生まれません。
まずは自分の他人に対する態度から変える
以上、振り返ってみると、自分自身にも思い当たるところがあるという人もいるかもしれません。
楽しむことと不真面目さは、切り離して考えているはずなのに、どこかで結びつけてしまっているという事実。
私たち日本人の多くにとって、この意識のギャップは落とし穴ではないでしょうか。
私も、昔ながらの日本文化の中で育ってきました。
スポーツで負ければ「悔しくないのか!」と言われ、無理やり悔しい表情を作っていました。
笑い、楽しみながら仕事をすれば、否定的に見られることも多かったと記憶しています。
額に汗して、余裕などない状態で仕事に打ち込む姿勢が好まれていました。(もちろんミスをせずに必死にやるという前提なのですが・・)
このような環境にいたためか、無意識のうちに、楽しむことはよくないという概念が自分の中にもあるように思います。
大部分は、楽しむからこそ成果が出ると信じているのですが、根底には根強く残っている文化的な感覚があるのかもしれません。
日本人であれば少なからずある感覚ではないでしょうか。
気持ちの良い社会にするためには、まずは自分が気持ちよく社会に働きかけることから始める必要があります。
巡り巡って、自分に返ってくる行為です。
堅苦しい、監視し合う文化の構成員になってはいけない。
まずは自分が変わる意識が大切です。
自分は大丈夫、楽しむことと不真面目さを切り離して考えているという自負に、一度疑いをかけてみることも必要ではないでしょうか。
今後も、楽しむことへの寛容さが、様々な場面で必要になってくるはずです。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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