「自分の世界を疑う」という視点が必要な理由

当たり前の世界を疑うことの意義

怖い国?おかしな思想?

こんにちは!Jimmyです。

私たちが暮らしている世界は、完璧ではありません。

社会に対する不満は、誰もが少なからず持っていると思います。

一方、自分たちが属している社会(世界)から少し離れてみると、別の社会(世界)が広がっています。

 

地理的にも政治的にも、遠くに感じる社会ほど、ある感覚が強くなるはずです。

それは、「怖い、不思議、よくわからない」という感覚です。

 

それと比べると、不満はあるものの、自分のいる社会はまともに見えてくるものです。

しかし、果たして本当にまともと断言してよいのでしょうか。

 

すでに冷戦が終わって何十年も経ちますが、今でも欧米を中心とする西洋諸国の考え方が中心であり、

私たち日本人も、そちらの考え方に近いと言えます。

その考え方から遠い国、地域に対しては、前述したとおり、「怖い国」という感覚を抱きやすいのではないでしょうか。

 

北朝鮮はもとより、中東諸国の一部やロシア、中国に対してもそういった印象を持っている人は少なくないはずです。

確かに、ミサイルを日本海に何発も飛ばしてきたり、紛争があちこちで断続的に続いていたり、自由主義とは違った考え方で国がまわっていたりすると、違和感を覚えるのも無理はありません。

ただし、怖い理由、おかしいと思う理由が、自分たちの社会と違うから、というだけで終わってしまうとよくありません。

それでは、安易に自分たちと違うものを批判しているだけになってしまいます。

 

今の当たり前も怖くないか?

自分たちが属している国や地域についても、今一度考えてみるべきかと思います。

例えば、アメリカも核を保有し、大きな軍事力を維持しています。

時には、世界の紛争地域に、軍事介入したりもします。

そして、時には誤った対象に攻撃をしてしまうようなことも発生しています。

 

それでも、アメリカに対して、おかしい、怖いという印象を持っている人は少ないかと思います。

どこかに、アメリカ(西洋)の考え方は正しいだろうという、無意識の価値観があるのかもしれません。

欧米企業の躍進や、カタカナ語などが受け入れられやすい状況を見れば明らかです。

同盟国という事実もありますが、相当に強い欧米崇拝という感覚も少なからずあるでしょう。

 

一方、日本と違い、アメリカと敵対している国の立場に立てばどうでしょうか。

軍事力、経済力ともに世界一、自然と影響力も発言力も大きくなります。

アメリカを脅威の対象と感じるのも無理はないだろうと想像できるかと思います。

 

また、別の見方になりますが、アメリカが中心となって生み出してきた金融市場というものも、ある意味おかしなものではないでしょうか。

行き場を失ったお金が流れ込む先として金融市場が発達し、様々な金融取引が行われるようになりました。

中には、実態を伴わない、マネーゲームのような、お金がお金を生むような取引も珍しくありません。

 

最近の例で言えば、仮想通貨(暗号資産)市場が急激に伸びています。

そこで、仮想通貨でデリバティブ(金融派生商品)を組むといったように、実態のないものを組み合わせて商品化しているような動きも目立ちます。

 

このような金融市場の活発化がもたらすのは、結果的に格差の拡大であるわけです。

これこそ、おかしな世界であると捉えられても不思議ではありません。

 

直接的な武器や人権弾圧のような類ではありませんが、

貧富の格差が激しい、自己責任の原則を背景にした息苦しい社会もまた、多くの人を苦しめていると言えます。

ある意味「怖い世界」です。

 

「植え付けられた考え方」を認識

今回は、西洋や、自由主義国の欠点をあげつらいたいわけでも、他の地域を持ち上げたいわけでもありません。

ただ一点、自分の住んでいる世界は、自分を盲目にしていないかという疑問を持つべきということがポイントです。

 

私たちは、よく遠い社会の報道を見て、違和感を覚えます。

事実が国民に伝えられていないとか、おかしな思想が国民に浸透していると感じることもあるでしょう。

そのような他国の情勢を見聞きするたびに、”かわいそうだ”という感覚を持つ人もいるかもしれません。

端的に言えば、情報統制、自由・思想のコントロールです。

 

しかし、その状況は当然ながら、自分たちにも言えることです。

私たちは、当たり前のように日本という国に生まれ、日本人という立場で世界を見ています。

だから、アメリカは同盟国であり、民主主義は前提であり、様々な常識もまた共通認識となっています。

その国の人からすれば、それが当たり前となります。

一方、別の世界の人から見れば、偏った危険な考え方と捉えられることもあるはずです。

 

その当たり前の視点から一歩抜け出し、考えてみることが今後ますます必要になってくるように思います。

何も考えずに、安泰で幸福感のある社会が維持されるような時代ではないからです。

既存の当たり前の中にも、情報の偏り、意図的な報道もあります。

修正していくべき社会秩序も、これからますます増えていくでしょう。

 

例えばですが、

「本当にSDGsは素晴らしいものなのか?」

といった問は、考えてみてもよいのではないでしょうか。

当たり前に、私たちの社会に浸透しており、大いに推進されています。

間違っているというつもりはありませんが、本当に効果的なのか、疑問に思えることも多々あるように思います。

少なくとも、絶対的な正解ではないことは確かです。

 

自分で正しさを考える

不透明な時代だからこそ、意志を持って生き方を選ぶということが、幸福感を持って生きるためには不可欠です。

現代社会は、問題も多く、時代の過渡期にあります。

 

正解がないから難しいというのも確かです。

しかし、正解がなく難しいから、考えるのをやめようという話ではありません。

逆に、正解は一つではないから、人それぞれ、どの考え方も正しいのだというのも違います。

 

普段、私たちが遠い社会の人を見て、情報も限られ、住みにくく、間違った政治でかわいそうだと感じているように、

自分たちも、偏った考えを植え付けられている可能性について十分に考えることが重要です。

もっと素晴らしい考え方があるのに、視野が狭いばかりに知らなくてかわいそうなのは、

もしかしたら自分かもしれないという視点です。

 

視野を広げれば、考え方も、選ぶことができる選択肢も当然広がります。

その見方は正しいのか、疑問を持ち考える習慣が有効です。

 

以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

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