こんにちは!Jimmyです。
必要もないのに、わざわざ不安や心配を自分にたぐり寄せる行為が習慣になっていないでしょうか?
楽しんでいると、あとでバチが当たるのではないか。
そんな感覚はないでしょうか?
因果応報の考え方と、それに基づき良い行動を心がけることは大変重要です。
日本人の多くに根付いた考え方でしょう。
ただ、悪い行動の定義を拡大解釈して、楽しむことを悪いことだとする意識がどこかに植え付けられている人も少なくありません。
本来、楽しむことは悪いことでも間違いでもありません。
今回は、バチが当たるといった因果応報の考え方の中でも、堂々と目の前のことを楽しむべきという趣旨の話になります。
日本人に身近な感覚「バチが当たる」
改めて説明する必要もないほど「バチが当たる」という感覚は市民権を得ていると思われます。
因果応報の原則に基づき、悪いことをすれば、その報いを受けるという考え方です。
神仏による罰を言うこともあれば、「お天道様は見ている」という通り、物事の道理として語られることもあるでしょう。
いずれにせよ、この考え方は、人が正しい行動を心がける上で、大変重要な役割を果たしていると言えます。
信仰心が薄れていると言われる現代でも、8割近くもの人が「バチが当たる」という概念を信じているという調査結果もあるようです。
↓参考:読売新聞オンライン
自分勝手や残酷なことして「バチがあたる」…信じる人76%、半世紀前より割合高く
ゴミの不法投棄が問題になっていた場所に、神社の鳥居を模した木を設置したところ、投棄が激減したという話も聞きます。
バチが当たるという感覚がよく浸透しており、正しく行動しようという動機づけになっていることがわかります。
「心配・不安・楽しめない」が基本設定に
因果応報の法則に基づき、正しい行動を心がけること。
当たり前になっている感覚ではありますが、実際には「正しい行動」の定義はどこにも書いてありません。
その結果、近年の日本では、よりつつましく、健気に、ひたむきな姿勢が「正しい」と解されることが多いように感じます。
つまり、どんなときでも楽しそうにしている、時には羽目を外して大騒ぎするといった行為が「正しい」からは若干外れるようになります。
そうすると、例えば、家族や親しい人が苦しい状況にあるという条件が加われば、楽しむという行為は悪として解釈されるでしょう。
だから、そんな状況になれば、わざわざ心配、不安になる、楽しめない方向へと自分自身を誘導しなければならなくなります。
近しい人の場合は、もちろん、気になって楽しめないという純粋な心配もあるでしょう。
一方で、因果応報の法則に基づき考える部分もあるはずです。
自分が楽しむようなことをしていれば、よくないことが起きる、バチが当たるのではないかと思ったことはないでしょうか。
子供の受験の時期には、親も行動がつつましくなります。
身内が入院している時には、楽しむようなことをするべきではないと考えることが一般的です。
それどころか、自分のよろしくない行動に原因を帰して、改めることもあるでしょう。
そんな考え方の土台に、社会通念や公共のモラルという視点が加わればどうでしょうか。
何かあれば、自粛モード、楽しむことを不謹慎とする考え方が当然のように台頭します。
毎日よいことばかりがあるはずはありません。
それどころか、コロナやらデフレやら格差やら、難しい問題が多い現代ですから、苦しいことは日常茶飯事でしょう。
そんな状況で生きていれば、不安で、楽しめないことが基本(デフォルト)状態になってしまっているといっても過言ではありません。
楽しんだこととバチが当たるは関係ない!
楽しむとバチが当たるは誰もが通る道!
「調子に乗っている」という状態は間違いなく楽しい時間でしょう。
よく、調子に乗っていると、ろくなことはないと言われます。
それは、時流を見誤る、大切な変化の兆候を見落とす、人間関係を悪化させるからであって、楽しむことが悪いと言われているわけではありません。
そのたびに、調子に乗っているからバチが当たったのだと諌められた記憶が私にもあります。
このように、実体験も経て教育されるものですから、強烈に印象としては残るわけです。
- 小学生の時に、自習時間、クラスメイトにのせられて、調子に乗って騒いでいたら、先生が来たことに気づかず、大目玉を食らった。
- 周りが笑ってくれるので、調子に乗ってふざけた動きをしていたら、ガラスを割ってしまった。
- 夢中になって休み時間を楽しんでいたら、始業時刻に遅れて、廊下に立たされた。
これらはよく考えれば、楽しんでいたからバチが当たったのではありません。
自習時間に怒られたのは、楽しんでいたからではなく、先生の言いつけを破ったからです。
ガラスを割ったのも、始業時刻に遅れたのも、単なる注意力不足。
楽しんでいたことが直接の原因ではありません。
しかし、楽しんでいたことでバチが当たったかのように記憶されてしまえば、以降もそのような法則のもとで考えます。
私の場合、高校生の時には、「粋がって髪を染めて部活の試合に出たから複雑骨折してしまった」。
サラリーマン時代には、「かげで上司の髪型をネタにして笑いをとっていたから、仕事でミスを起こし、その上司にたっぷり怒られた」。
このように関連付けて考えてしまう自分がいました。
しかし、真の原因は、調子に乗って楽しんでいたからではなく、注意が散漫になっていたり、準備が不足していたり、単に実力不足であったりすることにありそうです。
仕事のミスなどは明らかに、もっと見直すべき具体的なプロセスがあったはずです。
反省すべき原因は別にあるのですが、自分が楽しんだからバチが当たったと思ってしまう思考。
意外と同じような経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。
楽しんでいたからバチが当たるのではない
バチが当たるのは、よくないことをするからです。
よくないこととは、人を騙したり、迷惑行為をしたり、傷つけたり、人が見ていないところでずるいことをしたり。
一言で言えば人の道を外れるようなことをすれば、その報いがあるということです。
解釈は人それぞれですが、先ほどのように、学生が髪を染めたり、かげで上司の髪型をネタにして笑いを取るくらいは、適度にしていれば問題のないことでしょう。
分別のつかない子供の頃には、「楽しいこと≒よくないこと」のような図式がある程度成り立つにしても、大人になれば、多くは解消されています。
人格が成長するにつれて、「よいことだからこそ楽しいこと」となっていくのが理想です。
実際はそれほど単純ではありませんが、楽しんでいるからバチが当たると考える必要は全くありません。
楽しむことは間違いではない!
楽しむことは間違いではありません。
むしろ必要なこと、プラスのことと言えます。
笑顔もなく、暗くどんよりした雰囲気をしていれば、周りにもよくありません。
楽しんでいる人は、周りを明るくし、元気づけ、前向きな思考に導きます。
これだけでも、相当なプラス要素です。
苦しい状況にある人がいる中で、ことさらに楽しんでいる自分をアピールするようなことはよくありませんが、楽しむこと自体はプラスです。
自分が苦しい状況でも、家族が笑顔で楽しそうに過ごしていることを想像すれば、それが慰めになるはずです。
近しい人が苦労していたら、そんな気持ちにはなれないというのも、今までに蓄積された前提が影響している可能性は否定できません。
つまり、申し訳ない、後ろめたい、何かよくないことが起こるという感覚がどこかにある可能性があります。
一緒になって辛い思いをして、同じように精神をすり減らしていれば、よいことは何もありません。
必要な励ましも、支えることもできなくなるかもしれません。
無理にする必要はありませんが、
楽しめることは、堂々と楽しんでよい!
そのほうが、周りにとってもプラスである!
普段から楽しむことに罪悪感を感じる人は、そう認識し直すべきでしょう。
楽しめない人には厳しい時代
そもそも、なぜ今更「バチが当たる」と「楽しむこと」という考え方について話すのか。
それは、時代が変わっているからです。
私も、実際に見てきたのは身近にいる人達だけであるため、断片的な記憶と感想でしかありませんが、
一昔前の世代の人は、辛坊我慢が美徳であり、目の前のことを楽しむという考えは薄かったように思います。
辛坊我慢の先に成長があり、安定という見返りがあり、幸せがありました。
「楽しむこと」をよくないこととする考えは、時代にも合っていたのでしょう。
自由に好き勝手な発想をする組織よりも、とにかく言われたとおりに横一線に動ける組織が強かったわけです。
楽しまなくてよいから、ただ従順に決められた枠組みの中で動き考えていれば、正解とされ、認められてきたということです。
個人で事業をしているような人でも、真面目にコツコツ働くことと、楽しもうという考えは相容れない概念であったのではないかと思います。
それでも、一昔前の人のほうが、笑顔、感謝の気持ちやお陰様の精神は、今の時代の私たちよりも強く持っていたような印象です。
しかし、今はそういう時代ではありません。
ここが明確に違います。
自ら考え、選択し、意義を見出すことが、幸福感を持つためには不可欠です。
楽しむことができないと、考え方も、発想も行動も狭くなります。
自分で考えて判断し、変化していくことが求められる世の中では致命的です。
余計に苦しくなります。
今は時代の過渡期と言われています。
大きな変化を伴う過渡期というのは、様々な歪みが大きくなって顕在化します。
時代の歪みの影響をもろに受けながら、変化していくことが求められるのがこういった過渡期の特徴です。
そんな状況で前を向いて生きていくためには、楽しむ力が大きな武器になります。
自分だけが楽しい思いをしているとバチが当たる。
多くの人が、幼い頃に身に着けたこのような考え方は、強く意識して変えていく必要があります。
先程も触れましたが、自分で楽しむことをしないと、基本状態が不安、心配となります。
そんな状態で、世の中の不公平や、矛盾や、変化の歪みが押し寄せてくれば、気持ちが浮上することがなくなってしまいます。
持つべき原則は、
- 楽しむことは周りにとってもプラス、正解。
- 楽しめることは素直に楽しむべき!
- 楽しむこととバチが当たることには直接的な因果関係はない!
ということです。
たとえ、周りが沈んでいるようなときでも、自分も同じように沈んでしまうのはよくありません。
沈んでいないとバチが当たるような感覚になっていれば、それは旧来の社会の考え方の名残だと思い直すべきでしょう。
何度も意識していれば、やがて習慣になるはずです。
まとめ
バチが当たるという概念を信じている人の中には、楽しむという行為をプラスに捉えられない人もいます。
昔から教育されてきたことを振り返れば、そのような考え方に行き着くのも不思議ではありません。
本来、もっと明確な原因があるはずなのに、自分が調子に乗って楽しんだことが、道徳的によくなかったからバチが当たったのだと考えてしまう人もいます。
しかし、今の時代、明確にしておくべきことは、楽しむことは悪いことではない、プラスであるということです。
周りに苦しい状況にある人がいたとしても、そんなときこそ、自分は楽しくあろうと考えるべきでしょう。
時代の過渡期にある歪みが多い状況では、不安でいる、自粛している、楽しんではいけない状態が基本(デフォルト)になりかねません。
バチが当たるのは、人の道を外れたよくないことをしたことに対する因果応報の報いです。
楽しむことは間違いでもなんでもありません。
今一度、自分が楽しむという強い決意を自らに促してみてはいかがでしょうか。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました!
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