こんにちは!Jimmyです。
先日、お墓参りの重要性を話していたときに、こんな話題になりました。
輪廻転生を前提とすると、人は四九日を経て、生まれ変わると言われています。
ですから、何年経っても、先祖のお墓を参り、お盆になると先祖の魂が帰ってくると考えるのは矛盾しているのではないか? ということです。
確かに、理屈としてはおかしな話ではあります。
先に結論を言いますと、統一見解のような回答は無いと言ってよいと思います。
歴史や宗派も複雑であり、一つに決められるものではないでしょう。
解釈の仕方は無限です。(そもそも証明のしようもありません)
理屈や、経典の知識、正統性もある程度は必要かもしれませんが、
最も大事なのは、いかに今生きている人、つまり私たち自身が、その行為に意味と価値を見出すかに尽きます。
このような一見矛盾した、古くから伝わる考え方は、意外と少なくありません。
そのようなとき、私たちはどう向き合っていくべきか、そんな観点も交えて、敢えて正式な仏教の徒ではない立場で考え方を示したいと思います。
統一見解は無し 解釈は分かれて当然
冒頭の会話での疑問に対して、まず私が答えたのは、
とは言いながら、あまり考えたことはなかったため、簡単に調べてみました。
すると、やはり統一された絶対的な回答はないようです。
そもそも仏教伝来の経緯と、神仏混合の歴史、そして宗派、慣習を考えれば、複雑にならない方が不思議です。
専門家に正解を求めたいところですが、そこは科学と違うところです。
完璧に納得する答えを他者から求めるよりは、自分で考えて、腹に落とすべきです。
そうしないと、先祖供養やお墓参りなどの行為そのものが形骸化してしまいます。
✔️思想と科学は違う。
✔️科学のように絶対の正解を求めず、自分の腹落ちする答えを考えればよい。
仏教の輪廻転生と日本古来の先祖供養
自分で考えることが大切ではあるものの、一応の歴史の成り立ちは見ておくべきかと思います。
以下に簡単に示します。
インド仏教と輪廻転生
まず、仏教はインドが発祥の地です。
輪廻転生という概念は、釈迦が直接説いたか否かは諸説ありますが、仏教の古来からの考え方として認識されています。
地域や宗派によって違いはあるようですが、六道と呼ばれる6つの世界に生まれ変わっていくというのが一般的な考え方でしょう。
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のいずれかに行くことになります。
悟りを開くことで、この輪廻の輪から抜け出し、涅槃(ねはん)に入るということになっていますが、基本的にはこのような生まれ変わりが繰り返されるということになります。
中国で儒教の影響を受けた可能性
インドで成立した仏教は、中国に伝わりました。
中国では儒教の考えが広がっており、「礼記」などを見ても、細かく冠婚葬祭の作法や心構えが示されていることがわかります。
そこにはすでに、日本でいうところの「法要」の概念が記されています。
儒教の影響を受けながら、インド仏教では見られなかった、100日後や1年後などに行われる法要の考え方が仏教に組み込まれたようです。
日本の古来の思想に合わせて変化
その後、中国から日本に仏教が伝わり、各宗派に分かれていきました。
奈良時代には、天皇が旗を振って、日本古来の神道も活かしつつ、仏教を推進したことはよく知られるところでしょう。
日本古来の慣習として、祖霊信仰という概念があったため、仏教の法要の概念も、当然の流れで組み込まれていったのでしょう。
宗派によっても異なるとは思いますが、現代にある考え方の一例を挙げます。
ただし、それで終わりではなく、先ほど示したような供養の考え方が入ったことによって、
人は死後、輪廻転生するのではなく、祖先神となって、子孫を見守る存在になるという考え方が神道などの祖霊信仰の考え方です。
そういうわけで、突き詰めて考えると若干矛盾するようなことになります。
神仏混合ならではの慣習とも言えるでしょう。
理屈や科学ではない価値
1000年以上続く人間の基本的価値観
日本人は、信仰としては、仏教や神道が多いと言えるでしょう。
一方、それに限らず、様々な宗教の行事に参加し、楽しみます。
それについて、外国人から揶揄されることもありますが、歴史背景を考えればそれなりに理由はあるのです。
ここで注意しなければならないことは、伝統だからと無批判にありがたがることでしょう。
福沢諭吉は、「惑溺」という言葉で強く危機感を示しましたが、そのものや行為の意味も考えず、単に伝統を受け入れるという姿勢は、人間の成長を妨げるものです。
そういう意味では、冒頭の問のように、「矛盾していないか? 」と考えてみることは、
伝統行事や慣習の意味を考える上でも重要であると言えます。
考えてみれば、確かに矛盾するような考え方です。
仏教の輪廻転生を信じるのであれば、四十九日以降の法要は、一見無意味に思えます。
すでに魂は次の世界へと向かったはずです。
祖霊信仰に則るのであれば、四十九日までの一週間毎の供養は何のため? ということになりかねません。
だからこそ自分でも考えてみるべきでしょう。
事実として、神仏混合も、法要、仏壇という文化もここ数十年の話ではありません。
それだけ長い間、続いてきたということは、必ず意味があるはずです。
理屈や整合性より、いかに心に響くか
私が考えるに、まず死後の世界は誰にもわかりません。
確信できるものはありません。
輪廻転生するかもしれないし、しないかもしれない。
祖先神となるかもしれないし、ならないかもしれない。
そう考えると、どちらの場合にも備えて、法要しようと考えるのはある意味真っ当な判断と言えるでしょう。
また、輪廻転生して、すでにそこには魂の類がないとしても、
祖先があって、自分がいる(生まれた)という事実は変わりません。
在りし日の祖先に思いを馳せ、感謝の意を新たにすることは、大変意義深いことでしょう。
お墓の前で手を合わせる行為自体が、自分の成り立ちを思い出し、一つの区切りとする。
そして、日頃の生活を振り返るという意味でも大きな効果があります。
私の場合は、お盆などにお墓参りをする際は、毎回背筋がピンと伸びる気持ちになります。
真っ当な人生を改めて宣言するような場であると思っています。
普段の忙しい日常から離れる、自分を振り返る、感謝する、気持ちをリセットする。
これだけの効果があり、人間の精神的な行為として必要だからこそ、時代を超えて続いている慣習なのでしょう。
多少論理的に矛盾していても、科学的でなくてもよいのです。
その行為に、真に価値や効果を認識できていれば、その方がずっと大事です。
科学で精神的安定を創造できるとは限りません。
まとめ
神仏混合、様々な伝統の形成を経て、今の慣習が出来上がっています。
科学的、あるいは論理的に考えてみると、古くからの伝統行事や祖先の供養などの行為については矛盾が見られるかもしれません。
しかし、そこに矛盾があろうとも、人間の精神的な営みとして、長い間必要であったから、廃れず続いてきた慣習であるという面も否定できません。
進歩発展のためには、伝統を無批判にありがたがる惑溺には注意が必要です。
一方、長い間存在している伝統行事や宗教行事には、人間の基本的な価値観に則した大切な考え方が詰まっているものでもあります。
今回は、日本人に一番多い、仏教に関連して出てきた素朴な疑問を題材に考えてみました。
仏教の輪廻転生と、日本古来の祖霊信仰。
論理的には矛盾するところもあるかもしれませんが、人間の基本的な精神面の支えとして必要な伝統であると言えるでしょう。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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