なぜ福沢諭吉は1万円札であり続けたのか?功績を振り返る

こんにちは!Jimmyです。

今回は、長い間、1万円札の肖像として知られている福沢諭吉の功績を振り返ります。

なぜ福沢諭吉が、日本の最高額紙幣である1万円札の肖像に選ばれ続けてきたのか、はっきり認識できるでしょう。

どのような人が1万円札に選ばれるのか?

日本の紙幣に描かれている肖像画は、何を基準に採用されているのでしょうか?

この疑問に対し、財務省ではこのような回答がHPに記載されていました。

 

紙幣は、老若男女すべての人が使用するものであることから、学校の教科書にも登場するなど、一般に良く知られており、また、偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真・絵画を手に入れられる人物であることなどを基準に、採用しています。(財務省HPより)

 

福沢諭吉は、歴史の教科書でもおなじみです。

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」ではじまる「学問のすゝめ」は多くの人が知っています。

 

1万円札は、日本の紙幣で最も価値のあるものですから、すごい人なのだと想像できると思います。

では、何がすごくて「一万円札の人」になったのか、他にも精緻な肖像画があり、教科書に登場する有名人物はたくさんいます。

 

それにも関わらず、なぜ福沢諭吉が1万円なのでしょうか。

福沢諭吉の何がすごいのか、改めて振り返ります。

福沢諭吉の功績

福沢諭吉に関する記述では、以下のような内容が目立ちます。

 

  • 独学で英学を勉強し、三度の欧米渡航で学んだことを「西洋事情」、「学問のすゝめ」、「文明論の概略」等の著書により広く世間に広めた。
  • 明治維新とともに日本の思想を引っ張り、近代化に貢献した思想家、教育者。慶應義塾大学の創始者。

 

学校の歴史の教科書にも、そのような説明が書いてあったと思い出す人もいると思います。

上記の説明も、まさに教科書的です。

一方で、教科書的説明は何かすごそうな気配はしますが、いまいち、すごさがピンとこないのではないでしょうか。

 

戦国武将のように、戦での逸話があればわかりやすいのですが、文明的な話になると、大まかな話だけでは伝わりづらい部分もあります。

そこで、福沢諭吉のすごさとは何か、具体的にエピソードも交えて書いていきます。

福沢諭吉のここがすごい①福沢諭吉はどんな人?

福沢諭吉は、江戸時代の1835年、現在の大阪で下級武士の子として生まれました。

(参考:日米修好通商条約1858年、大政奉還1867年、学問のすゝめ発表1872年)

 

幼い頃から、古くからの風習に疑問を持ち、伝統のみを理由にありがたがる風習を痛烈に批判しました。

下級武士の子供は下級のまま、農民の子供はずっと農民という身分制度にも強い反発心を持ち、実力主義の社会を古くから見据えていました。

 

また、実証主義的な考え方を幼いことから身につけていました。

ありがたいものとされる「御札」を自ら踏みつけ、何も起こらないことを確認し、便所に捨ててしまったり、

奉られた祠の中身をただの石と交換し、それでも人がありがたがって拝んでいるところを観察して喜んだり、

偉い人のイメージとは若干異なるような逸話があります。

 

勉強だけをして、親や周りの大人の言うことを聞くような「良い子」ではなかったようです。

 

また、自分の生きる道は学問だということを強く認識しており、実利を求めることをしなかったことも福沢諭吉の特徴です。

 

欧米視察にて、会計に必要な複式簿記を学んで帰ってきましたが、実業には興味がないと言い切っています。

実務は苦手で、自分がやるよりも他の人がやればよいという考えでした。

 

事実、「複式簿記の何たるかは理解しているつもりだが、実務はやれと言われてもできない!他人が書いた、売買のこと細かな仕訳を見てもよくわからない!」と認めています。

 

見栄を張ることもなく、自己認識も実にはっきりとした人のようです。

 

自分はもっぱら学問を志し、それを世間に広めていくことを宣言し、そこに集中します。

それが思想となり、多くの人を動かすだけの影響力を持つようになったのです。

 

「学問のすゝめ」、「文明論之概略」は、今の世の中でも通用する内容がたくさん含まれており、多くの人に影響を与えています。

福沢諭吉が持ち帰った複式簿記により、日本で初めての株式会社と言われる、第一国立銀行を創設したのが渋沢栄一です。

株式会社は、複式簿記の考え方がなければ運用できません。

 

渋沢栄一がいなければ、日本の産業、金融の成長はずっと遅れていたと言われますが、そのきっかけを作ったのは福沢諭吉です。

もし、福沢諭吉が、自分がお金持ちになろうとして、株式会社設立に向けてのみ注力していたら、これほど急激な近代化は実現できなかったかもしれません。

 

自分の能力とやるべきことを的確に認識し、そこに向けてひたすら努力したところに福沢諭吉の凄さがあります。

 

福沢諭吉のここがすごい②活躍した時代背景

時代背景を考えると、功績の大きさがわかります。

1853年のペリー来航までの約200年間、日本は鎖国を行なっていました。

 

一方外国の一部では、欧米列強という言葉に表される通り、経済的、軍事的、文化的な強さを発揮していました。

植民地化に注力するなど、世界の後進国を侵略する動きが活発化していた時代です。

 

外国との交流を閉ざしていた日本は、世界に比べて大きく遅れをとっていたことはよく知られています。

外国脅威論は、幕府の中でも認識されるところとなり、明治維新に繋がります。

 

そこから日本は、慌てて近代化を目指すことになるわけですが、日本が当時おかれていた状況は悲惨というしかありません。

鎖国をしていて、文明も遅れています。

 

フランス革命や産業革命が起きていた頃でも、日本では、武士がちょんまげに帯刀で、馬に乗って移動していました。

おまけに、長い時間、外からの侵略の脅威もありませんでしたので、言わば「平和ボケ」状態です。

 

このような状況で、海外からの侵略の危機を知ったらどうでしょう。

大変な危機感を感じるはずであり、慌てることは間違いありません。

文明の圧倒的な違いを見せつけられても、国内を見渡せば平和ボケ状態。

古くからの習慣や価値観にしがみつき動こうとしない人たちばかり。

 

日本が侵略されるかもしれないという最悪な状況の中、見事に大衆の心を掴み、文明開化に導いたという功績は、日本の歴史にとっても、大変大きなインパクトだったのです。

 

今の日本でも、旧習にとらわれて新しい価値観を否定する人たちがいかに多いか。

そういった反対勢力を打ち破るのがどれだけ大変かを考えれば、当時の変革がいかに凄まじいものだったかがわかると思います。

 

大政奉還は1867年ですが、この頃はまだお侍さんの時代です。

これが、30年も経たないうちに、大国と言われた中国(清)と、日清戦争を行うまでになっているのです。

 

侵略される危機にある平和ボケ状態の日本を、西洋化に駆り立て、文明開化に導いた。

 

福沢諭吉のここがすごい③「学問のすゝめ」と「文明論之概略」

福沢諭吉が、外国からの侵略の危機にある日本を、思想面で引っ張っていったことを書いてきました。

では、大衆を動かした福沢諭吉の著書とは、どのような内容のものだったのでしょうか。

 

学問のすゝめ

まず、初刊わずか24ページの小冊子として発行されたのが「学問のすゝめ」です。

日本が、国民的独立を達成するためには、個人の独立が必要であり、

そのためには一人ひとりが学問を身につけることが不可欠であると説いたものです。

 

革新的でありながら、誰にでも読みやすく、平易な文章で書かれたことも広く読まれた理由です。

その後増編され、最終的には、300万部以上が売れたとされています。

 

当時の日本人口を考えると、実に10人に1人が買った計算です。

今の世の中でいう1300万冊と考えれば良いでしょう。

 

ちなみに日本の近代で最も売れた本は、黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」で580万部だそうです。

 

明治初期は、現在よりも読書に対する敷居が低いとは思えません。

江戸時代の身分制度でいうところの、農民出身者や女性の識字率は低かったはずです。

 

それを踏まえて考えると、ベストセラーという言葉では陳腐に聞こえるほどの未曾有の大ヒットだったと言って間違いないでしょう。

感覚的には、字の読める人のほとんどが読んだのではないかと思います。

 

文明論之概略

「文明論之概略」については、日本が近代化するにあたり、重要な戒めがたくさん込められています。

旧くからの習慣や伝統それ自体に価値が内在すると思い込み、その価値にしがみつこうとすること(惑溺・わくでき)を批判した内容となっています。

 

非常に論理的で説得力があり、これも多くの人に影響を与えました。

西洋文明は決して完璧なものではありません。

少なからず、急激に西洋化することに対して批判の声もあったようです。

 

福沢諭吉もそれは認めてた上で、欧米を「文明」、日本を「半開」、それ以上の後進国を「野蛮」と表現しました。

 

西洋文明にも欠陥はある、しかし日本はそこにもまだ至っていない半開の国である。

唯一の価値観を押し付けているわけではないという前置きをした上で、日本が進むべき道を問うているのです。

文明の方へ進むのか、野蛮の方に退くのか、という敢えて単純な選択にすることで、考えを促していると言えます。

 

また、多事争論(たくさんの人々が様々な議論をすること)を勧めたことでも知られています。

議論する中で話の本位を見定めることができるようになり、一層高い視点から物事を捉えられるようになると説いています。

 

反対勢力も多かった中で、福沢諭吉が思想を広めていくためには、議論の本位をしっかり見定める必要がありました。

自分本位ではない、より公共的な、より広範囲の利益に立って議論することの大切さを、しっかりと見定めていました。

そうでなければ、これだけの意識改革を導けるはずはありません。

 

これらの内容は、今の世の中でも通用する普遍的な内容のものが多く、今でも多くの人に読まれています。

まとめ

当時の時代背景を考えると、いかに福沢諭吉が説いた内容が革新的であったか、

しかも、それが多くの人に受け入れられ、日本の近代化を加速させることに大きく貢献したことがわかると思います。

 

慶應義塾大学を作ったからすごいとか、「保険」や「複式簿記」という概念を持ち込んだからすごいということにとどまらず、

自身の基礎となる考え方が、福沢諭吉をそうならしめたのだと思います。

 

旧くからの考え方に惑溺しないように戒める言葉は、今の時代のクリティカルシンキングに通じます。

旧態依然とした慣習に、疑問を持たないでいることの危険性を考えさせられます。

 

現在も1万円札にしっかり印刷されているのは、現代の我々に警鐘を鳴らし続けるためなのかもしれません。

 

追伸:

当初、「福沢諭吉が1万円札であり続ける理由」というタイトルでこの記事を書きました。
その後わずか1週間ほどで、紙幣のデザインが変更されるという決定がニュースになりました。
私にとってはすごいタイミングでした。

新しい1万円は渋沢栄一になります。
福沢諭吉の功績を書くところで、期せずして、少し渋沢栄一も登場させていました。

そうです、同時代に活躍した人です。
思想と教育で明治を引っ張ったのが福沢諭吉であり、実業で引っ張ったのが渋沢栄一です。
福沢諭吉が持ち帰った複式簿記を実業で生かしました。
新紙幣のデザインに渋沢栄一が選ばれたことで、福沢諭吉の功績もさらにピックアップされることになるでしょう。
 
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

同時代に活躍した人物

福沢諭吉にも影響を与え、いち早く近代化の必要性を主張した佐久間象山の記事。

佐久間象山から学ぶ人生、誰よりも早く近代化を主張した男のリーダー象

次の一万円札、渋沢栄一の主張。

『論語と算盤(渋沢栄一)』が現代に突きつける警告をまとめます

 

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