こんにちは!Jimmyです。
権威主義が蔓延しています。
情報が多く、変化も激しい不安定な社会だからなのかもしれません。
とにかく、世の中は権威を求めています。
代表的な権威の象徴が、受賞歴、職歴(職業)、肩書です。
自らに権威があれば、世の中でできることが広がると思われています。
それだけでなく、何かを判断するにも、何かを学ぶにも、何かに従属するにも、人は権威を求めます。
つまり自分にだけでなく、周りにも権威を求めているのです。
そのような人が増えれば、権威の価値は上昇します。
今まさに権威主義のインフレ状態です。
判断軸としてのバランスを失いかねないため、注意が必要です。
今回は、インフレ状態の権威主義に警鐘を鳴らします。
なぜ人は権威に頼るのか?
人は、知らない相手から情報を得たり、取引をしたりするとき、不安になります。
決められた相手とだけ関わっていればよい時代ではなくなったことで、不安を覚える機会も増えています。
そんなときに担保してほしいのは、正しい有効な情報であるか、信用に足る相手かどうかです。
当然、相手方の実績や経験、人格、責任感を知りたいと思うはずです。
そこで、何かを提供する側もされる側も、権威にその役割を求めます。
例えば、朝起きたら、
今の時代、気になれば、まずはネットで症状を調べてみることでしょう。
すると、◯◯知恵袋のようなページで、素性のわからない人が、
と書き込みがあったらどうでしょう。
頭の片隅には置くことはあっても、アロエを探しに行くことはまずしないでしょう。
一方、医者が監修するページで、同じように
と書いてあれば、試してみる気にもなるかもしれません。
情報の提供者は、信じてもらうために「医者の監修」である旨を公表します。
受領者は、その表示を見て、権威を感じて、信じてみようと思う確率が上がります。
結局このような身体の不調の場合、出所のわからない情報はスルーして、医者のコメントに行き着くものです。
素人ですから、身体の病気や症状のことなどわかりません。
医者という権威に頼るのは、もっともな判断と言えます。
ただ、医者といっても、色々なお医者さんがいます。
間違わないとも限りません。
つまり、100%の情報とは言えません。
もっと確実に把握したければ、時間と費用を割いて、直接病院に行こうとするでしょう。
このような権威の頼り方が通常と言えます。
受賞歴、職業、肩書は絶対的な価値ではない
最近は、人は権威に頼り過ぎている、権威が「奉られ過ぎている」ように思います。
受賞歴、職業、肩書きなどを絶対視するのは逆に危険です。
人の中身などは、これらの情報だけで判断できるものではありません。
職業が教師や警察官だからと言って、皆正義感に溢れているわけではありません。
頻発し過ぎて驚く人も減ったと思われますが、警察官や教師の破廉恥行為などは、よくニュースになっています。
肩書などはさらに曖昧です。
自身の所属する組織に、不思議なほど何もできない「名ばかり管理職」はいないでしょうか。
「いる!」という前提で進めてしまいますが、
そうであれば、他の組織にも、そのような人がいても不思議ではないのです。
受賞歴などは、後でも触れますが、選考過程や、賞の価値自体怪しい賞もあります。
誇張している人もいます。
人格が伴っている保証もありません。
よくメディアに出ている有名人でも、何もかも特別なわけではありません。
たとえ、その道で知識や実績があったとしても、派閥や利害関係に影響され、発言の内容も変えているかもしれません。
実績があっても、人格までは担保されません。
権威主義のインフレが発生
権威は、相手の素性がわからない者同士、あるいは利害関係にある者同士が、信用力を補完するためのツールというのが基本です。
先ほどの例からも分かるとおり、ほとんどは補完的な役割です。
(権威そのものに絶対的な価値があることは、歴史的な正統性を持った場合に見られますが、ほとんどの場合は無縁でしょう。)
そんな、絶対的なものではない権威が重視され、過度に注目されたらどうなるでしょうか。
権威(職業・受賞歴・肩書)が注目される
→みんなが必要以上に評価する
→反対意見を言えない、逆らえない雰囲気になる
→さらに露出と称賛が増える
→さらに神々しく見えてしまう、ありがたがられる。
→「偉い」人というニュアンスが強くなる。
→なし崩し的に人格まで信頼されてしまう。
このようにして、実態以上に大きく見られることになります。
言うまでもなく、権威が人格を保証するわけでも、能力を高めるわけでもありません。
しかし、権威がインフレ状態になると、それ以上の価値が付随してしまいます。
信用力や確からしさの補完に止まりません。
これを実現している人が増えれば、さらに権威に憧れる人、目指す人が増えます。
こうして、権威のインフレが加速していき、実態を超えた権威群が出来上がっていくことになります。
次に、権威主義インフレの弊害を示します。
権威主義のインフレの弊害
通常、インフレーションという状態は、物価が上がり続けている状態です。
ですから、人はお金をどんどん使って、物を得ようとします。
同じく、権威主義のインフレでは、権威の価値が上がっているわけですから、皆権威を得ようとする、あるいはしがみつくようになります。
肩書(役職)が全て・思考停止状態の組織
まさに、今でも多くの職場で起きていることだと思われますが、
組織の役職が印籠のような役割を果たしています。
役職者がとにかく「偉い」存在なのです。
正しさはさておき、役職がある人に、喜んで従う文化になっています。
役職に就く人も、従う人も権威を求めているのです。
組織で動く以上、最終的な権限や指揮命令体系は必要ですが、それが常時前面に出ているのはやりすぎです。
だから、上司に反対意見を言えない、考えることをしない、創造性を発揮できない、ボトムアップが機能しないということが散見されます。
実際に、権威だけを頼りに部下を従えている人、
希望や情熱をなくして組織にしがみつくだけの自己喪失状態になる人が後を絶ちません。
誰もが権威だけを重視している弊害が出ています。
あわせて読みたい
以下の記事では、権威に従い、自分の人格がわからなくなってしまう危険と持つべき視点を示しています。
フェイク権威・誇張権威(職歴も肩書も)
情報が溢れる世の中、多くの人が権威を持つことの威力を認識しています。
そして、権威を持とう、権威をいかに見せるか、作るかに苦心するようになります。
そうすれば自分の言うことを聞いてくれる、自分の発信に耳を傾けてくれる、お金を出してくれると信じています。
実際、多くのビジネス系のセミナーなどでも、権威が大事、消費者、取引相手にどう権威をアピールするかといった趣旨のことが話されているようです。
ブログなどでもまさにそうです。
何か権威になるものはしっかりアピールしましょう、そうすれば見てくれます、信じてもらえますと。
職歴(実績)を補うのが口コミなのですが、今では口コミも裏で操作したり、サクラを使ったりと、実際とは異なった事実が示されていることも珍しくなくなりました。
学歴詐称や、経歴詐称などは、芸能人であれば発覚するかもしれませんが、一般人なら気づかれないでしょう。
また、ブログなどをやっていてよく見るのが、収入公表です。
手っ取り早く、これだけ稼ぎましたという実績となり、それが権威となります。
これも、当然どこまで本当かはわかりません。
まずは人の目に触れなければ始まらないとばかりに、誇張した権威をアピールする人が増えています。
受賞歴にもカラクリや裏は少なくない!
受賞歴というのは、大きな権威になり得ます。
その道の第一人者ということが証明されているようなものです。
だから、端的に言って、権威を求める人なら誰もがほしいものなのです。
しかし、実際にはスポーツの大会のように、多くの人の目に晒され、公正でわかりやすい賞ばかりではありません。
大きく有名な賞であればあるほど、広い範囲で候補を探すことになりますので、
当然の流れとして、推薦人あっての受賞ということになります。
推薦人に選ばれるような人は、その道の息のかかった限られた人でしょう。
どうしても、政治的、派閥的になりやすいと言えます。
その賞の名誉のために、詳細は伏せますが、
客観的に見て、およそ賞の対象としてふさわしいとは思えない人が、自ら賞がほしいと言い出し、
人脈を利用して推薦を得て、受賞したという事例をたまたま見る機会がありました。
驚きすぎて、逆に興味が湧いたため、過去の受賞者なども調べてみました。
すると、中には同じ人脈の系譜で説明がつきそうな人選も見つかりました。
正当な理由で選ばれた人もいるとは思いますが、その賞の価値自体を疑ってしまったものです。
それでも、受賞者は、その分野の功績者として、永く栄誉を讃えられているのです。
こういったロビー活動や、人脈を駆使して受賞を勝ち取るような活動は、権威の価値が高く認識されればされるほど、激しくなるのではないかと思います。
つまり、本来の賞の趣旨から逸脱し、誤った人物評価を世の中に与えるきっかけになる事例も増えるということです。
ノーベル賞の暗黒の歴史
そんな経験があったからだと思いますが、ノーベル賞についても、私は懐疑的な見方をするようになりました。
ひねくれていると言われればそこまでですが、忘れてはいけないのは、
ノーベル賞を過去に受賞した人について、
ナチスを支持し、反ユダヤ主義のもと、アインシュタインの理論を否定した物理学者もノーベル賞を受賞しています。
また、ノーベル賞受賞の決め手となった功績自体が、後に悲劇を起こすこともあったようです。
ある危険な手術方法で、神経学者が医学・生理学賞を受賞したものの、
その手法は、後に現場で実施され深刻な後遺症を患者に残したということです。
そもそもの、候補者ノミネートの推薦が、功績ではなく、派閥で争われていた事実もあったようです。
(これらの事実については、現代ビジネスの記事を参考にしています。)
このような事例からも、ある賞の受賞と、思想・人格は別問題であると考えるべきでしょう。
また、受賞した後でも、その功績が間違っていたということも起こりうることがわかります。
違う分野でも受け入れられるという本末転倒
先ほどの現代ビジネスの記事の中にもありますが、
ノーベル賞受賞者のように、大変権威があるとされている受賞者が、全く別の分野で発言するような姿も見られます。
政治経済に関する見解などは、国民全てが関わっているため、当然誰もが発言する権利があり、また意見を持つべきことです。
例えば、化学の分野で受賞した人であれば、政治経済については、私たちと同じく、素人のワン・オブ・ゼムと認識されるべきですし、実際にそうです。
しかし、大変な賞の受賞者という権威に盲目になった人は、関係ない分野での発言にもかかわらず、ありがたがって、鵜呑みにしてしまう、称賛してしまうということが起こります。
もちろん、一人の国民の一つの意見として、共感したなら、それでよいのですが、権威を理由にありがたがるのは間違っています。
ある分野で受賞して持ち上げられ、天狗になっている人もいれば、何かしらの偏見を持っている人もいるものです。
そのような人を称賛していたら、専門分野以外でも、自分が一番正しいかのように振る舞い傲慢になってしまうでしょう。
当たり前の話ではありますが、権威主義のインフレが進む、つまり権威に盲目になっている人が増えると、
その当たり前のことが通じなくなります。
最後に 権威主義にストップをかけよう
情報が錯綜し、関わる人の数も増えている世の中だからこそ、権威を基準に考えるという人が増えているのかもしれません。
しかし、権威主義が行き過ぎた現在では、その歪みが徐々に大きくなっているように感じます。
多くの人が過剰に権威を求めれば、実績、肩書き、受賞歴などは、今よりもさらに信じるに足る情報ではなくなります。
本当に権威のある人であるかの判断もできなくなりつつあります。
考えてみればわかりやすいのですが、
組織で高い地位の人、役職者、褒章受賞者、各分野の専門家。
知らない人が肩書きや職歴、受賞歴を見れば、権威を感じそうだと思える人です。
くれぐれも、身近にいて、よく行動なども見て、知っている人で考えてください。
尊敬できる人、信頼できる人、社会的地位に見合った人だと思える人はどれほどいるでしょうか?
ここでも「あまりいないぞ!」という答えの前提で進めますが、
月並みですが、私たちが考えるべきは、権威主義に振り回されないことです。
以下のようなことを、今一度考えるべきではないでしょうか。
✔️権威を無批判・無条件に信じない。
✔️権威のある分野を考える。
✔️権威の高さと、人格・思想の次元は比例するとは限らない。
✔️自分を持つ、自分で考える視点を持つ、自分の意見を強く持つ。
✔️権威を持ち上げ過ぎないようにする。今は権威のインフレ状態。
✔️人物本位が基本。ありがたがるなら人物を知ってから。
✔️権威が欲しいなら、ズルをせず、コツコツと努力する。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
今の時代に警告を発する以下の記事も参考にしてみてください。
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