自分と向き合うことなしに幸福はない!危険な時代からの警告を話します

こんにちは!Jimmyです。

人も色々、人生も色々、それぞれ目指すところや価値観も違います。

ただ、共通して言えるのは、幸福な人生を送りたいということでしょう。

ただ、自分と向き合うことをしなければ、いくらよい大学を出ても、お金を稼げるようになっても、幸福感とは程遠い人生になるのではないかと思います。

簡単なようで難しい、自分と向き合うことについて、背景と必要な考え方を示します。

少なくとも、自分と向き合わない危険性について、認識が深まるのではないかと思います。

警告!まさに自由からの逃走

1941年、ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムによって書かれた「自由からの逃走」という本があります。

かなり昔に書かれた本ですが、今の時代に生きる私たちに、強烈なメッセージを発しているように思います。

多くの人は、自由を得たはずなのに、自由に伴う孤独と責任に耐えられず、放棄してしまったとフロムは言います。

自由を放棄することは、すなわち自分自身であることを放棄することに繋がります。

自由を得ても、幸せになれない人たちの心理が分析されているのですが、

フロムが指摘する自由からの逃走は、今の私たちの状況にこそよく当てはまることです。

 

自由を享受していると疑わない人たち

「今あなたが生きている社会は自由ですか?」

「あなたは、自由を手にしていますか?」

これらの質問にどう答えるでしょうか。

 

多くの人が、他国の状況や過去の歴史と照らし合わせて、今私たちは「自由を手にしている」と答えるのではないでしょうか。

好きな服を着て、好きな音楽を聴くことができる。

言論の自由も認められていて、職業選択も自由である。

どこに住んでもよく、海外旅行にも行ける。

 

しかし、果たして本当に自由を享受しているのでしょうか。

多くの人は、自由であることを疑いませんが、実際には大きな自由から逃走しているという現実をフロムは突きつけます。

 

自由は重すぎる?

文明が発達していない頃の人類は、当然生きていくのに必死であり、自由という感覚ではなかったでしょう。

また、ヨーロッパの中世社会、日本の封建社会においては、身分も決まっていれば、職業も住む場所も決まっていました。

これらの段階では、到底自由とは言えません。

 

一方、その代わりに、ある意味安定していたとも言えます。

やるべきこと(役割)も決まっているため、自分の将来の仕事を考えて不安になることも少なかったことでしょう。

周囲、社会と自分とのつながりを疑うという発想もなかったはずです。

 

しかし、人類は長い時間と労力をかけて、自由を求めて戦ってきました。

そのような歴史とともに拡大を始めたのが資本主義、民主主義です。

 

身分に関係なく、好きなことをしてよい、好きなところに住んでよい、そして好きな職業についてよい。

どこに行くにも自由、意見を発信するのも自由。

そういった世界が現実となりました。

 

一方で、封建社会にあった安定感、帰属感は脆弱になりました。

人生の選択は、自己責任ということになります。

不安に苛まれることは当然増えるでしょう。

 

他者との競争により、人間関係も対立的、批判的、懐疑的になり、孤独を感じる人が多くなりました。

大きな代償を払って獲得した自由のはずが、その自由の重みに耐えられず、自ら放棄する。

そして、大きな権威に従属することを望む人たちが増えました。

その結果、著者フロムの生まれたドイツでは、ナチスが生まれ、支持を得ていったという過程が示されています。

 

歯車、機械、道具となっていく人たち

不安になり、孤独を感じ、従属することを望む人たちの多くは、権威主義、機械的画一性によって自由を放棄しました。

権威主義的な人は、権威を愛すると同時に、自らも権威でありたいと望みます。

一方で、権威のない無力な人間に対しては、憎悪の気持ちも同時に持っています。

(上にこびへつらい、下には横柄な人は少なくないのは今も昔も同じであったようです)

 

地位や名声を求め、より大きな権威に従属することを希望する、そして権威のない人たちを支配しようとする。

これこそ、社会の歯車に自ら飛び込んでいく形そのものであり、ナチスが急速に支持を得ていった背景です。

 

さらに、自己喪失という代償と引き換えに、不安から解放されようとする人も大変多くいます。

周りと同じことをする、周りが期待した通りのことをする(機械的画一性)ことで、不安や疎外感、孤独から抜け出そうとします。

多くの人は、それが自分の意見によるもの、自分の意志であると思い込んでいます。

しかし、それは幻想であり、気づかぬうちに自己喪失して、組織や世論という権威に身を任せているのです。

 

このようにして、多くの人は、喜んで社会の歯車となり、権威の道具となりました。

それでも、自分は自由であると思い込んでいるというわけです。

 

自我を実現することでのみ克服できる

文明の進化と、血の滲むような先人たちの戦いによって、獲得されていった自由です。

しかし、自由であることの責任や不安に耐えられず、従属、隷属することを望む人が多いことがわかります。

 

そうなると、自由の中で、不安や孤独、無力感を克服するにはどうすればよいのかという疑問が湧くはずです。

 

その答えをフロムは、自我を実現させることだと言っています。

もう少し詳しく説明したいところですが、概念的な小難しい言葉を並べられていて、あまり具体的にはなっていません。

 

ただ一つ言えるのは、フロムも指摘する通りですが、個性を押しつぶすような教育体制、社会体制の中では簡単ではないということです。

自分と向き合うことがこれほど不可欠な時代はない

自分と向き合う

自由を放棄しないで、積極的に自由を享受するためには、自我の実現が必要とフロムは言います。

そうであれば、自分と向き合うことなしには考えられません。

その必要性は、今の時代になりますます高まっています。

 

資本主義の進展で自己喪失に拍車がかかる

先ほど紹介した「自由からの逃走」は1941年のものです。

80年前にはすでに、自由であることの大きな責任、不安、無力感により自由から逃走する人間の心理が描かれているわけです。

この傾向は、資本主義の進展により加速度的に強まっていると考えられます。

 

個人の責任、自由競争、市場原理の名の下、不安に晒されて、権威に従属することを望む人。

そして、社会システムの道具、歯車の一部となり、自己喪失と引き換えに画一性を選ぶ人が後を絶ちません。

 

フロムによると、自由を放棄し、より大きな権威に従属すること、周りと同じ機械的画一性を受け入れることで、無力感から解放されるとされています。

 

しかし、今の時代ではそれさえも難しくなっています。

成熟した資本主義では、成長の余地は当然限られます。

コモディティ化が進めば、人件費はたたかれる対象になります。

その上、技術革新のサイクルの流れはとんでもないほど速くなっています。

 

そのような社会では、従属していても、その関係が一方的に切られるケースも多々あるでしょう。

安心感を得られるほどの豊かさ(給料・福利厚生)や、成長、安定の保証もありません。

 

現に、自己喪失という代償を払ってもなお、不安や孤独を抱え、精神疾患を患う人、無気力になる人が増え続けています。

できることとすれば、より大きな権威を探すか、不安をなくすために、一層権威のない人への圧力を強めるかです。

従属や自己喪失を選んだ人であれば、そこから自我を取り戻すことはもはや困難です。

 

その前に、自我の実現に少しでも近づかなければならないということです。

 

まるで計画経済のような働き方

世界が複雑化した現状においては、国家による計画経済は機能しないと考えるべきでしょう。

(ただ、今後AIや機械学習などの進化によってはわからないため、「現状は」ということにしています)

 

計画経済とは、中央の一部の人(官僚)が、国の全ての生産計画を立てるということです。

需要や必要性を予測した上で、生産量も価格も、売る場所も決めてしまいます。

 

当然、うまくいくはずはありません。

全知全能な人などはいないからです。

 

そういうわけで、国の生産力としても低下することになるのですが、二次的な被害もあります。

それは、働く人の意欲と自発性も低下するということです。

「どうせ中央の人が作った計画に自分たちは従うだけだから」

「いくら懸命に働いても、もらえるものは同じだから」

となります。

 

そのため、現在では市場経済が必須と考えられている背景があります。

しかし、市場がある社会で働いている人たちの中にも、まるで計画経済のような働き方をしている人がいます。

 

組織の上層部が決めて、それに意見することもできず、課されたことだけをやる。

自分の意見を言おうにも、相手にされない、さらに自分が工夫したところで大勢には影響ない。

 

そう考えると、計画経済の弊害と同様に、意欲も思考も低下することになります。

巨大化した組織ほどこの傾向は強くなり、中間管理職などでも当たり前のように見られます。

 

全体主義を希望する人、懐かしむ人

資本主義の進展、格差の拡大、無気力化などの傾向と同じく、社会主義が見直される動きもあります。

アメリカでも、バーニー・サンダース氏が支持を集め、大統領選の民主党候補まであと一歩のところまで善戦しました。

マルクスの資本論も、今になって、再度注目を集めるようになっています。

 

一方、これを支持する人の中には、自由からの逃避の目的も少なからずあるのではないかと思います。

逃避の目的で、社会主義に向かうのは得策とは言えないでしょう。

 

日本やアメリカでは導入された事例は過去にもありませんが、中国では年配の世代では社会主義を経験しています。

その人たちから話を聞くと、意外にも、競争もなく、和気藹々としていて楽しかったという発言を耳にしました。

もちろん豊かな社会ではなく、それなりに貧しい社会であったにも関わらずです。

 

自由ではないものの、従属し、周りと同じであることの安心感と帰属感により、精神は安定していたと推測します。

この感覚は然もありなんという印象を受けるのですが、一方で危険であることも事実です。

 

権威に盲目になり、思考が低下した時、その上で現状の自分の置かれた環境に対する不満が高まった時どうなるか。

これは歴史が示す通りです。

独裁者が台頭、暴走するのを助長することとなり、大変危険ということです。

自分と向き合うからこその自由・幸福

自分と向き合う

自我、積極的な自由という言葉が出てきました。

これらを実現した人だけが、自由から逃げることなく真に自分自身になれるということになります。

だから自分と向き合うことが必要なのですが、具体的にはどうしたらよいのでしょうか。

簡単ではありませんが、もう少し詳しく考えてみます。

 

自我を実現したお手本・芸術家に学ぶ

フロムの著書の中にも、自我を抑圧しない自発的な人の例として芸術家を挙げています。

まさに、常識や固定観念、世間の常識などにとらわれず、自分と向き合う人の典型と言えるでしょう。

日本人の中では、太陽の塔の製作者でおなじみ、芸術家の岡本太郎さんなどは、真っ先に思い浮かぶ人です。

著書もあります、参考にしてみるとよいでしょう。

 

個性的すぎて、ハードルが高いと思われるかもしれませんが、考え方のエッセンスを学ぶには大変お勧めです。

当たり前のように、常識を疑い、出る杭となり、世間と戦い、危険な道を選ぶ。

それでこその人生だという気概を、これでもかというくらい感じ取ることができるでしょう。

 

また、周りに独創的な芸術家の人、芸術肌の友人がいれば、よく観察してみるとよいかもしれません。

 

周りと同じで安心しない

私たちが認識するべきは、小さい頃から、周りと同じであることをよしとする教育を受けてきたことです。

学校だけでなく、社会に出ても同じです。

周りの大部分と同じであることに安心感と帰属意識を覚えます。

 

そのため、周りと同じであることを無条件によしとする考えを否定しなければなりません。

すなわち、変わっている、ズレていると思われることに対して、ウェルカムな姿勢である必要があります。

 

特に、ズレていると言われたり、それが発展してダメな人などと言われたりすることがあっても、無条件に降伏しないことです。

人間ですから、当然直さなければならないこともあります。

謙虚さとの兼ね合いですが、考えることを放棄してはいけません。

 

本当にそれは直さなければならないのか、ズレていてどういった問題があるのか、自分の人生観と照らし合わせてどうなのか、落ち着いて考えてみることも大切です。

相手が自分の都合が良い方向に持っていくために、あるいは言うことを聞かせようとして言っているだけかもしれません。

 

自分と向き合い、これが自分である、間違っていないと思えたら、むしろズレていると言われたことを歓迎すべきです。

それこそ、世間の常識や権威ではなく、自分自身に従った自発的な言動であるからです。

(大前提として、自分の中に確りとした正しさ、正義の定義を持ち合わせていることが必要です)

 

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自分の意志なのかを自問する習慣

気づかないうちに、自由から逃げ、自分を喪失していても、自分は自由である、自分を持っていると疑わない人が多いという話をしました。

情報が溢れる現在では、さらにその傾向が強いと言えます。

 

周りから得た情報、調べた情報、聞いた情報を、いつの間にか自分の意見と思い込んでいることが頻繁に発生します。

無意識のうちに周りの正解に合わせて、権威の意向に合わせた表面上の意見を構築していることもあるでしょう。

その最たる例が、「会社のために、組織にとっては」から始まる言葉です。

都合よく権威を借りて、意見を正当化する手っ取り早い方法です。

 

それを確かめて、自分の意志と区別するには、自問して振り返るしかありません。

自分が決断して言ったこと、明日言おうとしていることに対して、

「これって、どうしてこの意見になったんだっけ?」

と自分に問いかけます。

 

自分で思っているよりもずっと、以下のような理由による意見構築が多いと思います。

  • こう言えば丸く収まりそう、よく思われそう
  • あの人が、この本が、そう言っていたから正しいのだろう
  • 自分の役職と立場を考えたらこう言うしかない

 

このような場合は、一旦打ち消して、フラットな状態で考え直してみるべきでしょう。

実際にそれを言えるかどうかは別として、心底ではどう思っているかを認識します。

そうしないと、いざ言うべき時に、自分の意志すらわからなくなり、示せなくなります。

まとめ

自由に生きることができれば幸せだと思います。

しかし、自由でいることは、大きな責任と孤独、不安もつきまといます。

 

その重みに耐えきれず、自由を放棄し、大きな権威や集団に従属する人が後を絶ちません。

権威主義に従い、機械のような画一性を受け入れ、歯車、社会システムの道具となります。

 

しかし、自己喪失と引き換えに、一時の安心と安定感を得ることができた時代はもう過ぎ去りました。

今の時代は、帰属感による安定すらもままなりません。

明らかに、逃避した先に幸せはないということです。

 

自由を享受し、幸せに生きるためには、自我の実現、つまり自分と向き合うことが欠かせません。

発想を変えて、世論としての正解にとらわれることなく、自分自身の内なる価値観をもっと大切にしてみてはいかがでしょうか。

 

最後になりましたが、こちら、参考図書です。

1日でさらっと読める本ではありませんが、私はこれを初めて読んだ時は衝撃を受けました。

 

以下の記事についても、幸福な人生を送るためのヒントになると思います。

興味のある方はぜひこちらもご覧下さい。

 

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