信頼は人間関係の基本だが
こんにちは!Jimmyです。
他人を裏切るのはよくないとはわかっていても、誰かを裏切る、誰かに裏切られたというのは世の常と言ってよいほどよく発生しています。
裏切りがあれば、そこにあった信頼関係は揺らぐか、もしくは崩壊するでしょう。
関係に甚大な影響を及ぼす裏切り行為は、誰もが避けたいと思うはずです。
それでも、なぜこれほど頻繁に発生するのでしょうか。
今回は、裏切りに対する考え方をテーマとします。
裏切りに対する考え方
単純なケースなら簡単!
単純なケースでは、まず1対1の関係があります。
何かしらの約束、決め事、契約において、お互いが行動するとします。
例えば、明日一緒に遊ぶという約束であれば、明日に約束の場所に行くだけです。
約束を破れば、待っている相手は裏切られたと思いますし、行かなかったほうが悪いと言えます。
または、行けなくなったもっともな理由(高熱が出た等)を事前に説明すれば、裏切りとは思われずにすみます。
非常にシンプルです。
このように、当事者だけの単純なケースで考えれば、裏切りは滅多に発生しない、そして善悪の判定がつきやすいものとなります。
一方、それほど単純ではないため、裏切り行為は世の常になってしまっている部分もあります。
誰もがしている裏切りの真実
期待を裏切るという言い方もあります。
約束を破るのもそうですが、相手の期待していたとおりにできなかった場合も、相手は裏切られたと感じることもあります。
スポーツ選手などは、活躍を見込まれて契約をし、ファンも応援するわけですが、
期待に見合った活躍ができないと、ファンやチームの期待を裏切ったとされてしまいます。
たとえ懸命に努力しても、結果が出なければ裏切られたと言われてしまうのが厳しいところです。
先ほどの、1対1の約束の話も、複数の人が関係すれば、事態はそれほど単純ではなくなります。
AさんとBさんは、プライベートで明日会う約束をしています。
Aさんは、その日を心待ちにしていました。
ところが、前日の遅くに、Bさんのところに、事業パートナーのCさんから、「大きな仕事の話が舞い込んだ、明日一緒に来てほしい」と言われたとします。
またとないチャンスと言ってよいほどの話です。
Cさんとしては、当然Bさんには優先して来てほしいと考えます。
もし、先約を優先されたら、ともに事業を営む立場として、失望し、裏切られたと感じてしまうかもしれません。
先約をしていたAさんも、楽しみにしているほど、ドタキャンされたときには、理由がたとえ仕事であっても、裏切られたと感じるかもしれません。
どちらを選択しても、どちらかを裏切る形になってしまうこともあるということです。
裏切られたかどうかは、相手が決めることであり、自分では筋を通したつもりでも、相手からすれば裏切りであると認定されることもあるでしょう。
家族(子ども)との約束か、突発的な仕事かの選択で、泣く泣く仕事を選ばざるを得なくても、小さな子どもからすれば、それは大きな裏切りでしょう。
登場人物がさらに増えたり、立場、状況が複雑になったりすれば、判斷はより難しくなります。
こう考えると、誰からも裏切られることなく、誰も裏切らないという状態は、何もしない限りもたらされないと言ってよいかもしれません。
高く困難な目標ほど誰かを裏切らないのは難しい
目標が高ければ高いほど、困難であればあるほど、どこかで誰かを裏切ることになる可能性も高まります。
高く困難な目標を達成しようとすれば、関係者、協力をしてもらう人の数も増えます。
ケースに応じて、協力する人も変わっていくかもしれません。
ときには、仲違いをしたり、大きな方向転換を迫られたりすることもあるでしょう。
そうなれば、誰かに不利益が及んでしまうこともあるはずです。
悪徳商法などのように、最初から誰かを騙すことを目的としている人などほとんどいません。
それでも、大きなビジネスや前例のないような難しい挑戦をしていれば、結果として誰かを裏切ってしまうシーンも出てくるというのが真実でしょう。
向谷匡史氏の「田中角栄の流儀」という本の中に出てくる、田中角栄を指導した裏社会の大物の言葉です。
人を裏切ることのない人間はノミやシラミと同じだ。寄生して生きているからじゃ。もし、そこに夢や意志があるなら、必ず結果として人を裏切ることになる。これが人間社会の宿命というものだ。
(向谷匡史氏著 『田中角栄の流儀』より)
自分の正しさの軸を持つ
裏切りなどは、したくない、されたくないに決まっています。
それでも、世の中を生きていれば、特に大きな挑戦をすれば、裏切りの波に巻き込まれることもあるでしょう。
裏切られることも裏切ることも辛いものですが、どちらも避けられません。
それでも最終的な目的を目指し続けるためには、自分の正しさの軸を持つこと、強化することが欠かせません。
そうしないと、心が疲弊して、自分の言動の善悪がわからなくなり、大きな挑戦はできないでしょう。
結果的に、何を目指しているのか、何のためにやっているのかわからなくなってしまいます。
(もしくは、裏切りに無頓着になり、その場限りの利己的な判斷に終始し、倫理観から大きく逸脱することにもなりかねません。)
自分は、無条件に、常に正しいことをしている、誰にも迷惑をかけていないという考え方は、独善的であり危険です。
大きなことほど、成功や成果は、誰かのおかげさま、そして誰かの大きな犠牲の上に成り立っていると考えるべきです。
それでこそ、少しでも正しいことを目指すこと、反省すること、そして感謝することが意識付けられるようになります。
この習慣が、自分の判断軸を強化するはずです。
ますます複雑になるこれからの時代を前向きに挑戦していくには、何を差し置いても、自分自身の正しさの軸が必要です。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
信念や軸を強化するために、以下の記事も参考にしてみてください。
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