北条泰時の政治からわかる成功と人がついてくる条件(承久の乱と御成敗式目)

こんにちは!Jimmyです。

リーダーシリーズ、今回はかなり昔の時代になりますが、鎌倉時代の北条泰時を紹介します。

 

歴史の授業で覚えている人も多いと思いますが、わりとさらっと過ぎていった内容ではないでしょうか。

執権政治を行った。

承久の乱で後鳥羽上皇に勝利し、その後、御成敗式目を制定した、くらいでしょうか。

しかし、この北条泰時(父の義時も含めて)、過去に例がないような問題に挑み、歴史の大きなポイントを作った人だと言えます。

 

考えてみればすごい状況です。

  • 武家が天皇家に逆らって戦うという前代未聞のことをした。
  • 何の権威もない(将軍家でもない)のにリーダーシップを維持し、以後数百年に及ぶ武士の世の中の基礎を作った。

注目しないわけにはいかない人であると言えるでしょう。

 

北条泰時が承久の乱に勝てた理由

鎌倉幕府の将軍家がいなくなった(源実朝が何者かにより暗殺された)ことで、源頼朝の妻、北条政子が政治を代行し、その後は執権という役職の北条家が政治を担当しました。

そんな幕府と朝廷の間で起きた争い、承久の乱は日本史において異例な事件です。

これを戦い抜く決意をした北条家も異例であり、勝てたのも異例であると言えるでしょう。

 

承久の乱を簡単に振り返り

承久の乱とは?

承久の乱は1221年に発生した、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との争いです。

日本史上初めて、朝廷に武士の政権が逆らった事件です。

結果は、後鳥羽上皇が敗れて、隠岐に流されました。

 

背景

背景には、貴族政治が終わり、武士の台頭が著しかったことがあります。

鎌倉幕府が成立し、大きく分けて日本の東を鎌倉幕府(武士の支配権)が、西を朝廷が支配する構図となりました。

朝廷と幕府という二つの大きな支配勢力が存在していたことになります。

次第に幕府の勢力は増していきます。

幕府から任命された役人が、天皇家直轄の荘園などに派遣され、徴税の役割を担うようになりました。

すると、本来納められるべき税が朝廷側に届かないという事例が発生するようになり、朝廷側の幕府に対する不満は高まっていました。

 

後鳥羽上皇の決断

そんな中、三代将軍、源実朝が暗殺されたことで、将軍家が途絶えます。

源氏は清和天皇の血統で所謂由緒正しい家柄です。

幕府勢力が大きくなっていた背景とあわせて、

これ以上北条氏の勝手な振る舞いを許しておくわけにはいかないということで、

後鳥羽上皇が、北条義時(泰時の父)討伐の院宣(上皇による命令)を発し、戦いが勃発します。

 

戦いの結果

後鳥羽上皇側の大敗。

そもそも、幕府側が挙兵したこと自体、朝廷側にとっては予想外でした。

何と言っても、朝廷の命令です。

逆らうわけないだろうと思っていたのです。

「朝敵」となることを恐れて、幕府につく者は少ないだろうと見込んだのですが外れました。

後鳥羽上皇はじめ、朝廷側の首謀者たちは、流罪などの刑に処され、それ以降鎌倉幕府が政治の実験を握ります。

ただし、天皇家を滅ぼすことはせず、新しい天皇を迎えて、引き続き朝廷としては継続することになりました。

六波羅探題が設置され、以後朝廷の動きは監視されるようになりました。

 

前例のない大問題に見出した大義名分

概要だけ見ると、後鳥羽上皇は無能な人であったかのように見えます。

しかし、後鳥羽上皇の決断は正常な判断であったと思われます。

 

院宣で、義時を討てと言っているのですから、幕府側は朝敵です。

天皇家に逆らうことはこの時代でも、前代未聞の話です。

誰もが朝敵にはなりたくないのです。(現代であればいきなり非国民とされるような感覚でしょう。)

幕府に味方する者はほぼいないだろうと考えるのが正常です。

 

討伐命令を下された当の本人、北条義時も慌てました。

泰時も、当初迷いが生じていたようです。

朝廷に逆らうなんてしていいのか?という思いが当然あったわけです。

そこには大義名分が不可欠でした。

 

そこで、中国の「放伐論」を持ち出しました。

紀元前の中国において、皇帝討伐の事例があったのです。

中国でいう皇帝はいわゆる天子、天の子です。

ですから皇帝に逆らうことは、天の意向に背くことになるのですが、

悪政をする暴君については、もはや天命に背いている状態、滅ぼすことが天の意志であるとするのが放伐論です。

暴君として有名な殷の紂王、夏の桀王(夏は実在したかは不明とされています。)を周の武王、殷の湯王が武力で滅ぼした事例が語り継がれています。

 

同様に、朝廷に国を治めさせれば、以前の世の中のように国はまとまらず、民は苦しい思いをする。

今うまくいっているのは幕府の政治であり、朝廷の政治は悪政である。

幕府が瓦解すれば、御家人、その他の人すべてが大いに苦しむことになる。

だから天皇を討つのは、武王や湯王と同じく正当な行為なのだとしたわけです。

領土を支配したい、自分が権力を握りたいという私的な欲望では到底奮い立つことはできない中、天皇を討つ大義名分を見出しました。

 

あくまで世の中のために必要であり、その証拠に天皇家を滅ぼすことはせず(ここは湯武とは違うところ)、自分たちを新たな天皇と名乗ったりすることはありませんでした。

むしろ、そのように振舞えば、すぐに反感を得て、瓦解していたことでしょう。

「悪政を滅ぼすところまではよいが、だからと言って泰時くん、きみがトップに立つのはおかしいよ!」

となっていたはずです。

この判断により、執権政治の基盤が固まったと言ってもよいでしょう。

 

北条政子の名演説では人は動かない?

歴史の教科書には、承久の乱の際、幕府側に味方するよう説得する北条政子のシーンがよく取り上げられます。

先ほども少し触れましたが、幕府成立前の貴族中心の世の中は、武士にとっては不遇な時代でした。

それが、「御恩と奉公」の関係により、しっかり働いた分だけ、御恩として幕府から領地が与えられるなどして豊かになった背景が御家人にはあります。

 

そこで、有名な演説につながります。

「頼朝さんからの御恩は、海よりも深く、山よりも高い、今こそその恩に報いるべきよ!」

として御家人を奮い立たせたと言われています。

 

ちなみに演説では、「上皇を討て」とは言っていません。

強いて言えば、ここが北条政子の巧みなところかもしれません。

あくまで朝廷をそそのかしている悪い人たちがいるから、それを退治しようと主張することで、朝敵になることの後ろめたさを感じさせないように配慮しています。

 

実際に、御家人たちは、この演説で奮い立ったというよりは、実利、自分たちの行く末を考えても幕府側に立つしかないという立場だったと思われます。

朝廷側について、勝ったとしても、元の時代のようになれば、今まで獲得した自分たちの領地や特権はなくなり不遇の時代になることは確実。

朝敵になるのは怖いけれど、とりあえずは幕府側についておこうと考えていたはずです。

 

つまり、北条政子の演説というよりは、御恩と奉公を軸とした体制が機能していたところが生命線であったと思われます。

 

ただの人・北条泰時が政治を続けられた理由

北条氏はあくまで執権であって、天皇家でもなければ、源氏のように由緒正しい家柄でもありません。

つまり、何も権威のないただの人です。

いつの時代でもそうですが、戦後処理は非常に厄介であり、不安定になりやすいものだと言えます。

そんな人が、承久の乱の後も政治を続けられたということは、それなりに理由があります。

 

初の日本独自法 御成敗式目

天皇家でもなければ、将軍家でもない、つまり絶対的な権威のない人が、世の中をまとめようとすれば、好き勝手な判断をしていては通用しません。

実際、戦後の御家人の成果・報酬を判断する際にも、不満がでないようにするのに大変苦労しました。

そこで、泰時が必要としたのが、誰でも理解できる基準、「法律」でした。

 

法律は以前からありましたが、中国のものをそのまま取り入れていました。

そもそも、漢文であり庶民の理解できるところではありません。

ですから、実際には権威のある人が黒といえば、どんなものでも黒になっていたわけです。

 

一方、北条家にはそのような権威はありません。

そのため、泰時は独自の法律を作り出しました。

それが御成敗式目です。

領地のこと、裁判のこと、役職のことなどを仮名を使って51条にわたって定めました。

これにより、自分の力ではなく、法律の力によって国をまとめようとしたのです。

これが基礎となり、その後数百年にわたり、武士の世の中になっていったことを考えると泰時の功績は大きかったと言えます。

 

無死無欲の質素な生活

法律を整備して公平性を確保したとしても、執権である泰時本人が私欲にまみれていれば、その運用はねじ曲げられていたことでしょう。

泰時が師と仰いだ明恵上人の教えが影響していると言われていますが、

泰時自身が、とにかく無私無欲に徹したことは、権威のない人間が政治基盤を築くことができた大きな要因です。

 

無私無欲になったときこそ正しい判断ができるという教えにしたがって、

生涯にわたり、自分の暮らしにおいて贅沢することなく、質素な住まい、食べ物、着物を貫きました。

 

また、武士のための世の中を目指すにあたり、自己犠牲も厭わなかったところは特筆すべきことであると思います。

この時代にも飢饉に悩まされることがありました。

そこで、米のある豊かな地域に対して、自らが保証人となり借入を申し入れさせ、苦しむ人たちに行き渡るようにしたと言われています。

さらに、利息は泰時負担、どうしようもない場合は元本も負担することすらあったようで、質素倹約というよりむしろ貧乏な生活であったと言えるでしょう。

そのような言動があったからこそ、承久の乱後の政治をうまくまとめて、執権政治の礎を盤石なものにできたということです。

 

まとめ

天皇でもない、将軍家でもないのに、承久の乱を乗り越え、人が慕ってついてくるような政治ができたのは、以下のような理由によります。

 

  • 朝廷と戦うにあたり、大義名分を見出したことで前を向けたこと
  • あくまで自分たちがトップに立つのではなく天皇家を継続させたこと
  • 実態に合った法律(御成敗式目)の力で世を治めたこと
  • 無私無欲を貫き自己犠牲も厭わなかったこと

 

泰時の立場に立てば、判断を誤りそうなポイント、欲得に負けてしまいそうなポイントはたくさんあったように思います。

現代の世の中で考えたら、北条泰時のような人が実際にいるでしょうか。

そう考えると北条泰時のすごさがわかります。

 

なお、他の歴史上に燦然と輝くリーダーについて記事を書いてありますのでよろしければこちらも参考にしてみてください。

 

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以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

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