こんにちは!Jimmyです。
「これは、本当に日本人の特徴なのか」と考えることがあります。
日本の豊かさ、文化、DNAのようなものとして当たり前に言われていることの中には、真実ではないものもあるように思います。
今回は、「集団を大事にする」と「民度が高い」について考えます。
日本人像として、当たり前に捉えられることが多いかと思いますが、本当にそうでしょうか。
集団を大事にするのは日本人の特徴か
『人間を幸福にしない日本というシステム』という著書があります。(カレル・ヴァン・ウォルフレン著)
1994年に発行されたものですが、今でも参考になります。
日本生活歴の長いオランダ人ジャーナリストの視点で、日本の問題が論じられています。
外からの視点ということで、気付かされる部分も多くあります。
参考図書:
集団を大事にするという特徴については、本書では、「偽のリアリティ」という言葉で説明されています。
つまり、真実ではなく、偽物の現実を見せられているだけということです。
これは、どこの国でも当てはまることだとは思いますが、知識や情報を持っている層と持っていない層に分かれます。
情報を持っているのが政府(官僚)であり、市民は偽のリアリティを与えられるに過ぎないという構図です。
日本は他国よりも、この構図が強いと指摘されているのですが、その要因が「政治化された社会」です。
一言で言えば、民間部門と政府部門が融合したような組織が日本には広がっているということです。
政府(官僚)は、大企業、業界団体、経済団体等を通じて、あらゆる業界に対して強い影響力を持っています。
命令系統のようなもので、同じ方向を向かせやすくなっています。
90年代に比べれば幾分かは緩和されたようにも思いますが、それでも、この繋がりは強固です。
このような命令系統の中に、一企業は取り込まれざるを得ません。
様々な企業が、政府によって、あるべき姿を(ある程度)コントロールされている状態です。
これが土台となり、日本では戦後から一貫して、産業発展という使命のもと、多くの企業がひた走ることを可能にしました。
この体制の中では、どの企業でも、産業発展に向かうという意識が形成され、個人は犠牲にされる傾向にありました。
企業に対する義務感が強いのは、社会が政治化されている結果という見方です。
個人の視点に立てば、このようになります。
集団に入った途端、意志を剥奪されるような雰囲気になっていた。
集団で生きていくための教育が施されると同時に、自尊心は傷つけられへとへとになった。
集団の一員としての振る舞いを覚えて外を見てみたら、どこも同じような仕組みになっていた。
これを踏まえれば、集団が好きなわけではなく、そう仕向けられただけという見方もできるはずです。
外国人である本書の著者も、このように押し付けられたら、日本人に限らずこうなるだろうと言っています。
後にも述べますが、民主主義も実際は機能しているのか怪しい日本です。
大多数の市民の利益を代表する政党もありません。
日本人は、集団が好きな国民であるという偽のリアリティを与えられたまま、幸せになれないという問題が浮かび上がります。
90年代当時では、「富める国の貧しい国民」という言い方になっていましたが、
もはや富める国とは言えない日本では、問題はさらに深刻になっています。
集団を大事にする、勤勉である、協調性がある、責任感がある。
このような言葉に納得して、日本人とはこういうものだという思いだけで取り組んでいると、疲弊する可能性があります。
実際、働く時間は長いかもしれませんが、勤勉であるかは、また別の問題です。
限られた時間で、高い集中力を発揮して帰る人もいる中で、まったりと仕事をする人もいるわけです。
協調性がどうかという以前に、協調以外に選択肢がないというケースも多いでしょう。
日本人の特徴ということで納得してしまうと、それ以上問題として考えなくなる危険があります。
致し方ないとして諦めることに繋がります。
個人としての幸せを実感しにくい時代だからこそ、まずはこの常識を疑う視点が必要ではないかと思います。
民度が高いことは日本人の特徴か
経済成長に関しては、近年よいところがない日本ですが、その一方で、誇るべき特徴として語られる言葉があります。
「民度」です。
日本人は民度が高いというふうに、どこからともなく言われるようになりました。
国民や住民の生活程度、また、経済力や文明の進歩の程度。
日本では、多くが中流階級であるという認識もある通り、平均的な教育水準は高いと言われています。
サッカーの会場でゴミ拾いをするサポーターの姿、災害の現場にいても列に並ぶ人の姿は世界から称賛されます。
一方で、生活の程度や、民主主義の国として、という意味では疑問が残ります。
まず、生活の程度ですが、先ほど紹介したとおり、日本は政治化された社会と言えます。
日本ほど、個人の家庭生活にまで、企業が影響する国はないと著者は感じていたようです。
ある程度の自由が個人としての成長をもたらしますが、その自由が与えられるケースが社会全体として少ないのです。
その結果、歪んだ生活、遊び、情緒不安定をもたらすという趣旨の指摘がなされています。
具体的には書かれていませんが、この意味を考えるのは難しくないと思います。
家庭の状況、家族関係の情緒がどうなっているかという問題に繋がります。
次に、民主主義の国としての日本を見ると、しっかり機能しているとは言えないでしょう。
本書では、政治勢力としての中間層が、ほぼ完全に欠落していると指摘されています。
所得的には、今でも数多くの中間層が存在しますが、政治勢力としてみればほぼいないということです。
理由としては、所属している組織で、エネルギーを使い果たし、それ以外のことはできないからだということになります。
他国では、中間層が、政治を変えるための大きな役割を果たしますが、日本では会社員の政治活動はあまり見ません。
おそらく、なかなかできないというのが実態でしょう。
そういった政治的中間層が育たず、サラリーマンの政治影響力が小さいのが日本の現状ということです。
社会を変えるための政治活動、市民としての活動を教えられてこなかったため、そのような意識は確かに乏しいと言えます。
そういう意味では、最近になって、若者の政治参加、市民の活動参加を叫ぶ声が強くなっていますが、非情に大事な流れであると認識すべきでしょう。
最後に
今回は、参考図書をもとに、疑うべき「日本人の特徴」を紹介しました。
ここで注意したいのは、働き方にせよ、政治へのスタンスにせよ、受け身の姿勢が強いということです。
その結果、当然持つべき、自分の生き方に対する問が少なくなっているようにも思います。
問がなければ視野も広がりません。
視野が狭くなれば、社会に対する使命感も持てるはずはありません。
当たり前として認識していた考え方の中にも、日本人が幸せになれない大きな要因が潜んでいることがあります。
まずは、新たな視点として、今回紹介した二点について、考えてみてはいかがでしょうか。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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