もう学ぶことはないという姿勢が危険
こんにちは!Jimmyです。
学ぶということを考えると、セミナー、勉強会、書籍、ウェブ媒体等様々な方法、機会があります。
特に、ウェブを利用した学習方法は、場所に制限されないため、画期的であると言えるでしょう。
社会人になってからも、新たな学びの機会を求めている人は年々増えているように思います。
そんな中、自分がすでに知っていること、過去に学んだことがあることについて、どのように考えるでしょうか。
わざわざもう一度学ぶ必要はない、その分、他の新たなことを学んだほうが効率的であると考える人が多いかもしれません。
もちろん、新たな知識や見解を広げることが、大変重要であることに異論はありません。
一方、同じことを繰り返し学ぶということについても、意識しておく必要があるのではないかと思います。
自分はすでに「知っている、わかっている、できる、マスターしている、なぜ今さらこの私が」。
この感覚が、実は非常に危険であることが多いのです。
知っていることとできることは違います。
マスターしている=完璧であることなど、現実問題として、そう滅多にはありません。
たとえ、一時はよくできたとしても、時間が経てばできなくなることもあります。
環境も変わるため、同じやり方では通用しなくなることもあるでしょう。
そういうわけで、今回は、大事なことほど何度でも繰り返し学ぶべき理由を示していきます。
繰り返し学ぶべき理由と学ぶべきこと
一流ほど基本の繰り返しを大事にする
基本が大事であるとはよく言われます。
ただし、スポーツや武道のイメージが強いかもしれません。
一流の選手ほど、基礎練習や簡単な反復練習を大事にしていることは、もはや多くの人が認識しています。
プロ野球選手を見ていても、華麗なファインプレイをするような守備の名手ほど、基本的な動作、ボールのとり方などの反復練習を大切にしています。
基本の動作が、怪我をしない身体を作ることにも繋がるのでしょう。
武道の達人も、難しい技ではなく、基本的な練習、単調に見える動作を欠かすことはありません。
相撲では、四股(しこ)、てっぽう、すり足などは、横綱でも大関でも入念に行っています。
一流の人ほど基本を大事にするという事実。
このことを企業勤めの人に当てはめるとすれば、基本的な挨拶、マナー、倫理観、コンプライアンスといったところでしょうか。
一つ一つは、それほど難しいことではなく、やろうと思えば誰でもできる、理解できることばかりです。
しかし、実際には挨拶や身だしなみ一つで印象を悪くしている事例は、若い人に限りません。
コンプライアンスのルールなどは、社会人でなくてもわかりそうなものばかりですが、守れない人が後を絶ちません。
(不正事案や、情報管理不備、セクハラ、パワハラなどの問題が取り沙汰されるのは日常茶飯事です)
少しの気の緩みや迷いのために、重大な問題に発展してしまうこともあるかもしれません。
そのため、このような基本は、多くの組織において、繰り返し勉強会が開催されたり、注意喚起がなされたりしています。
挨拶強化月間などを、課などのグループレベルで取り組むような事例もあります。
年齢や経験、立場に関係なく、誰もが繰り返し考え、注意すべきことこそ、基本的なことばかりです。
一流の人ほど、繰り返し基本に立ち返り、実行しています。
必ず学びや気づきがある
”わかっているつもり”になっているということは本当によく発生します。
他者(特に部下、後輩等)に教える、伝える必要があるときによく気づかされます。
ある程度経験を積んできたことであっても、いざ他者に説明しようとすると、うまくできないことがあります。
それは、説明の仕方の問題ではなく、自分自身がよく理解していないという何よりの証拠です。
意外とこのようなケースは多いと思われます。
ひどいケースでは、うまく質問に答えられないものですから、声を荒げて「そういうものなんだ、文句言わずにやれ!」という言い方をする人もいます。
説明しながら、「あれ、これってどういうことだっけ・・」となる場面は私もよくあります。
そこで、改めて調べ直し、考え、理解を強化したという経験も何度もしています。
知っている分野だと思いながら参加した勉強会ほど、新たな学びがあることも珍しくありません。
一部の秀才的な頭脳の人を除き、初めて学ぶ分野では、一回の勉強会ではよく理解できないことも多く、消化不良に終わることも多いものです。
(わかったふりをしてしまうというのもよくあるセットです)
ある程度知っていることだからこそ、様々な角度から思考ができ、疑問も浮かび、結果的に有意義な会になるのだと思います。
仕事に限らず、思い返せば学生時代に家庭教師をしていた頃も似たようなことは何度もありました。
中学生レベルの漢字を忘れていたこともあれば、
ことわざを間違って覚えていたり、
よく知っているはずの歴史の流れや関連性があやふやであったり、
そのたびに改めて学びなおしていました。
そうすることで、なんとなく知っているという状態から、説明できる、つまり理解している状態へと成長することができたといことです。
生徒のためだけではなく、自分のための学びにもなっていました。
家庭教師の流れで受験勉強の話を続けますが、うまくいく人ほど、繰り返し同じ参考書や問題集を利用しているものです。
うまくいかない人に限って、ありとあらゆる参考書に手を出している印象です。
結局、たくさん読んだり問題を解いたりしたつもりでも、あまり頭に入っていないということが発生します。
限られた時間の中、欲張らず一つ一つ着実に理解していくことが大切であると言えます。
同じ問題集でも、二回目であっても三回目であっても、必ず新たな発見や学びがあります。
本を一年に何十冊、あるいは100冊読んだと豪語する人がいますが、冊数ではなくどれだけ自分の血肉にしたかが大事です。
感銘を受けた本であれば、二度三度と読んでいるうちに、新たな気づきや考えさせられることが増えていくはずです。
好きな映画を何十回も見るという人がいますが、都度新たな刺激を得ているのではないかと思います。
そこで深く考えることができたのであれば、100種類もの違う映画を惰性で鑑賞するよりも価値はあります。
繰り返し学ぶことは、まったく無意味な行為ではなく、理解と思考を深めるためには必須と言えるでしょう。
当たり前のことほど何度も学び考える
繰り返し学ぶことは大事であっても、新しいことも当然にして学ぶ必要があります。
何を繰り返し学ぶべきか、時間が有限であるため、取捨選択が非常に重要です。
結論を言えば、自分の価値観の根幹にあるもの、大切にしているものは繰り返し学ぶべきということになります。
もちろん、自分が生涯かけて情熱を注いでいるような専門分野があれば、自ずと繰り返し学んでいくことになると思います。
しかし、誰もがそんな分野を明確に見定めているわけではありません。
特に若い世代ほど、様々な迷いの中、様々な可能性を試したくなるはずです。
だからこそ、心底から興味を持ったこと、感銘を受けた本、あるいは先ほども出てきたような「基本」に近いことでもよいかと思います。
自分の価値観の源泉を考えてみることが大切です。
例えば、人生で大事にしていること、という問で考えるとすると、価値観の奥深くにいくほど当たり前のことも増えるように思います。
「感謝」、「ポジティブ思考」など大きな概念として捉えることもできるでしょう。
当たり前に、人として重要だと認識していることですが、たとえば「感謝」については、何度学んでもよいと言ってよいほど根本的な価値観です。
学び方も一通りではありません。
感謝の大切さを話す人は大勢います。
結論を突き詰めれば、最終的にはどの人の話も「感謝は大切です」ということになります。
結論はもうわかっているのです。
そのような、わかっている同じ教訓であっても、異なるエピソードを聞いたりすると新たな発見があります。
何冊も本を読んでいる、何人もの人から感謝の大切さを聞いてきた、そして自分なりに考えて実行してきた、
それでも、感謝することの大切さについて、また別の人の話を聞くと、ときに勉強になり、ときに感動することもあります。
そして、気持ちを新たにすることもできます。
実践してみようと思えることも変わってくるかもしれません。
「感謝」の大切さだけではなく、努力すること、苦労すること、笑顔でいることなど、当たり前のように言われていることほど、何度も学び、考え、実践しようとしなければ、理解、会得することはできないでしょう。
「説教じみた道徳観など、こりごりだ、もっと実益に直結することを学びたい」と考える人も多いかもしれませんが、
当たり前に大事にされていることほど、繰り返し学ぶという姿勢が大切です。
そして、学べることは必ずあるという心がけが、そのような姿勢を作っていくのではないでしょうか。
完璧なゴールは、実はないものと考えていたほうが、よりゴールに近づくことができるものです。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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