パスカルの「パンセ」に学ぶ人間の本質【気晴らしという概念】

こんにちは!Jimmyです。

今回は、パスカルの『パンセ』から学ぶ、人間の本質についてです。

様々な名言が残されている『パンセ』ですが、その中から、「気晴らし」という概念に注目して考えます。

パスカルの『パンセ』とは?

著者パスカル(1623-1662)

パスカルは、フランスの哲学者、思想家であり、数学者、物理学者でもあります。

今回紹介する思想面のみならず、「パスカルの三角形」や「パスカルの原理」など、数学、物理など多方面で才能を発揮しました。

『パンセ』とはどのような著書か?

パンセとは、フランス語で、思想、思考の意味となります。

パスカルは、30代でこの世を去っています。

出版に向けて準備されてきた思考の断片が残されていましたが、それらを後にまとめたものが『パンセ』です。

つまり、パスカルの遺稿集という位置づけです。

キリスト教について書かれている部分が大半ですが、宗教的な思想に関係なく、深い洞察から考えさせらる部分も多くあります。

「人間は考える葦である」、「クレオパトラの鼻」など多くの有名な文言があります。

「気晴らし」という概念

パスカルの思想の中で、1つの大きなキーワードとなるのが、「気晴らし」という概念です。

今回は、これについて考えたいと思います。

 

人は気晴らしがないと不幸になる

私たちが一般に考える気晴らしとは、趣味をしたり、飲みに行ったりということでしょう。

一方、パスカルは、より広範囲な真面目な活動を含めた、あらゆる活動を気晴らしとして捉えています。

 

人間は、気晴らしなしではいられないというのがパスカルの考えです。

確かに、辛い仕事をするからには、気晴らしは必要だと考えればその通りです。

 

しかし、パスカルは、全てを手に入れた国王であっても、気晴らしがなければ不幸になると言います。

自分が手に入れたモノや土地や宝を見ていれば、幸福が続くというものではないようです。

それよりも、目の前のダンスのステップをいかに上手くできるかが重要だということです。

 

気晴らしがなければ、自分と向き合うことになります。

国王であっても、いつ起きるかわからない反乱、病気などを考え不安になるかもしれません。

究極的には、やがては死が確実に待っているわけです。

何もすることなく、自分と向き合えば、虚無感と向き合うことになるはずだということです。

身分の高い人が幸福なのは、気晴らしをさせてくれる人が多いからだそうです。

王の取り巻きは、いかにして王に自身のことを考えさせないかで苦心します。

 

虚無と向き合うことになるのは、一般人であっても同様です。

そのため、賭け事や、交際、戦争や出世など、様々な出来事が求められるようになります。

そこに、実質的な幸福があるわけではありません。

気を紛らわせ、考えを自分自身から遠ざけるような騒ぎを求めているのです。

人々は、獲物よりも狩猟という行為を好む理由はここにあるとパスカルは言います。

しかし、当人たちは、自分たちが追い求めているものは獲物ではなく、狩猟にあると知りません。

自分を認識できていない状態ということになります。

 

みじめさと気晴らし

努力して地位を得たら、休息したいと願う人は、欲望は満足を知らないことを自覚していないとパスカルは指摘します。

そういった欲望は、本能として備わっているということです。

一方、もう一つの本能として、幸福は、喧騒の中ではなく、休息の中にあると悟ることもできるようです。

 

この2つの対立する本能の間で、奔走し、一生涯が過ぎていく。

つまり、休息を求めては倦怠し、喧騒を求めるといった人間の行動をパスカルは見出していました。

 

パスカルは、パンセを通じて、人間のみじめさについても多く触れています。

人間の偉大さは、自分がみじめであることを自覚しているところにある。一本の立ち木は自分がみじめであるとは思わない。

『パンセ(上)』パスカル著 塩川徹也訳 より引用

 

みじめさのうちにある人間を、慰めてくれる唯一のものが、気晴らしであるという考え方が示されています。

しかし、それこそが、私たちの最大のみじめさだとパスカルは言います。

それは、自分のことを考える第一の妨げとなり、自分を認識しないまま破滅に向かうことになるからです。

 

得られる視点

虚無感や自分と向き合うことと、気晴らしの境界線については、明確にはされていません。

しかし、あらゆる行動が気晴らしに値するのだと考えると、善行を考え、世のため人のためという行動も、気晴らしの類になるのかもしれません。

パンセの中の言葉を借りれば、「思い上がり」になるという見方もできます。

思い上がりは、すべてのみじめさを埋め合わせる。それはみじめさを覆い隠す。さもなければ、さらけ出した上で、みじめさを自覚していることを自慢する。

『パンセ(上)』パスカル著 塩川徹也訳 より引用

 

気晴らしについて、パスカルはどちらかと言うと否定的な立場で書いています。

その立場に立てば、それこそ、人間の行動のすべてが虚しく感じられるようになるでしょう。

 

しかし、当然ながら、人間のみじめさや不完全さを認識したあとで、宗教の正当性を考えることが今回の目的ではありません。

(パスカルが出版しようとしていた目的は、キリスト教擁護の意味合いが強いと思われます)

 

今回、パスカルの気晴らしという概念を考えたのは、独善を防ぐための強烈な視点として有用であると思ったからです。

気晴らしの全てを否定する必要はないと思います。

一方で、自分は常に正しいことをしている、人のために動いている、正義であるという思いが強いと、簡単に独善家が誕生してしまうでしょう。

 

ある意味、人間の不完全さ、みじめさを認識しつつ、自分と向き合うことで、謙虚な気持ちで臨むことができるのではないでしょうか。

 

本ブログでは、頻繁に正しさの実行や、信念の話をしていますが、時に、違った視点で考えることも有効かと思います。

以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

原文解釈に近いものにハードルを感じれば、ポイントをわかりやすく解説してくれている本から入るのもお勧めです。

 

 

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