あとで気づく大切なもの
情緒は大切
こんにちは!Jimmyです。
「情緒」がある、ないなどと言われることがあります。
①おりにふれて起こるさまざまなおもい。喜怒哀楽などにつれて起こる複雑な感情。
② その物に接した時に受ける、しみじみとした特有の情趣。
一言で言い表したり、理屈を述べたりすることができないような複雑な感情や趣を感じた経験は、誰にでもあると思います。
情緒のある作品、景色、人などと聞いて何かしら心に浮かぶものがあるのではないでしょうか。
日本人は、昔からこのような情緒を大事にしてきました。
わびさび、もののあわれ、風流、をかし、などなど情緒ある物事を表現する言葉は様々ありますが、
どれも明確に定義づけられるようなものではありません。
若干年寄りくさい響きもありますが、情緒を感じる感覚は、年配者だけにあるものではありません。
現代の若者言葉で言えば、「エモい」といった感覚が似たようなものかと思われます。
悪い意味では、情緒がない、情緒不安定な人などという言い方をします。
つまらないものや、精神的に良くない状態にある人のことを表しています。
いずれにせよ、情緒ある生活というのは、人が人らしく生きる上で大切にしてきたものです。
なくなると寂しいもの
先般、「納屋橋まんじゅう」が廃業するというニュースを目にしました。
納屋橋まんじゅうとは、名古屋の名物として、長く親しまれた酒まんじゅうです。
創業は明治時代、地元ではよく知られた名店の一つということで、驚く人も多かったと思います。
工場の老朽化が原因とのことでしたが、コロナの影響もあり、設備投資をして続けられるほど利益が出ていなかったのかもしれません。
販売最終日には、朝から行列ができていたようです。
祖父母の代から食べてきたという人も多く、閉店を残念がる声が多方面から上がっていました。
私も愛知県の出身ということで、親しみがあるというより、昔からある定番品という認識を持っていました。
普段は、全く気に留めることもなく、それどころか、まんじゅうよりはケーキなどの洋菓子のほうを好んで食べます。
それでも、久しぶりにあると、嬉しくなり必ず口にし、懐かしい味わいを楽しんでいました。
いざ閉店と聞くと、やはり寂しい気持ちも出てきます。
納屋橋まんじゅうに限らず、いざなくなると寂しいものというのは他にも多くあります。
古くなって取り壊される駅舎であったり、地元の百貨店であったり、
その段になって、大切な生活の一部であったことに気づき、思いを馳せます。
昔に名を馳せた芸能人の訃報を聞いたときというのは、その人の名前を久しぶりに聞いたときでもあったりします。
それでも、一時代を築いた有名人が去っていくのは、寂しい思いがするものです。
あって当たり前のものに対する愛着というものは、たしかにあるものだと感じます。
問題は、その愛着に長い間気づかないまま、過ぎていってしまうということです。
情緒がない慌ただしい時代
効率を求めて余裕を失う
納屋橋まんじゅうしかり、駅舎しかり、当たり前ながら、昔から馴染みのあるもの、その人の生活に溶け込んでいたもの。
人はこのようなものにこそ、情緒を感じるのだと思います。
一方、現代のように慌ただしく、時間に追われるような暮らし向きでは、情緒を感じる余裕を持つことは簡単ではありません。
情緒ある物事というのは、ゆったりと意識しないと気づけません。
日々、新しい物事やルールが誕生し、またたく間に世間に浸透し、新たな価値観や流行を生み出します。
必要なものも、そうではないものも、モノだけではなく情報も含めて溢れかえっている世の中です。
そのような流れに身を任せていては、余裕がなくなるのも、ある意味当然です。
日常では(特に仕事においては)、効率、(損得の)得を追い求めて忙しくしていることが、むしろノーマルな状態と言えます。
しかし、情緒と向き合う時間がない人ほど、まさに情緒不安定であったり、様々な内面の問題を抱えているようにも見受けられます。
不満を持った人、攻撃的な人、何かを過度に恐れている人、不機嫌な人、
豊かに見えても、少なくとも不自由がないように見えても、内面の深い問題を抱えている人は少なくありません。
効率を求めて、競争を経て、何かを得たとして、そこに幸せを発見できないという事例も見聞します。
情緒がない時代は、幸福感のない時代にもつながるのかもしれません。
立ち止まることの大切さ
立ち止まる≠全力を出さない
社会構造を考えると、慌ただしく過ごさざるを得ない部分もあります。
忙しくしていること、効率的に動くこと、周りより多くのことを成し遂げること、学ぶこと。
これらも大事ではありますが、そればかりでも続きません。
ゆっくりしていることは、全力を出し切っていないと捉えられることもありますが、
立ち止まることと、全力を出さないことは同じではありません。
時には立ち止まって、物事の価値を考えることも大切です。
気づけば、便利なものばかり、流行りの考え方ばかり、あるいは組織に言われた価値ばかりを見ていないでしょうか。
そうなれば、情緒ある生活、ひいては幸福感のある生活を持続することは難しいかもしれません。
私も、よく反省するのですが、忙しくしていると、無駄なことを減らしたいという考えになります。
そうすると、季節の行事であったり、昔からの風習であったりを、すべて避けてしまうことがありました。
たとえば、1月7日に七草粥を作らず、コンビニで買ったものを食べれば時間はかかりません。
クリスマスにクリスマスツリーの飾り付けをしなくても、損することがあるわけではありません。
このように、効率で考えれば、無駄になりかねない行動ですが、情緒で考えれば決して無駄ではありません。
伝統行事などを通じて、昔子どもの頃にしてもらったことを思い出すことができれば、両親を思い出すことに繋がります。
当たり前にあるものの意味を考えることで、その大切さに改めて気づいたり、風流な思いが芽生えるかもしれません。
最終的に、今あるものに感謝して使用する、食べる、取り扱う。
あるいは、当たり前に近くにいる人に対して感謝を持って話す、接するというきっかけにもなるはずです。
そういう情緒あるところから、幸福感は少しずつ広がっていくのではないかと思います。
慌ただしい、変化の時代であるからこそ、人生で大切なことを定期的に立ち止まって考えたいものです。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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