こんにちは!Jimmyです。
今回はアイデンティティを失わないためにやるべきことというテーマです。
アイデンティティとは、「自己同一性」と定義されています。
つまり、自分は何者であるかを見分けるためのものということです。
現代社会は、アイデンティティが失われやすい世の中であると言えます。
その弊害と、今だからこそ持つべき考え方を示していきます。
地域社会でのコミュニティという関わり方を、見直す機会になればと思います。
アイデンティティ喪失による暴力性
先日フォーブズの記事を読んでいたら、英文学者のマーシャル・マクルーハンの言葉が紹介されていました。
一部引用します。
マクルーハンは1977年に、現在のこうした状況を予言するかのように、「フロンティアで生きる者はアイデンティティーを失い、誰でもなくなってタフに生きなくてはならなくなる。誰かであることを示さなくてはならなくなり、非常に暴力的になる。人はアイデンティティーを失うと暴力に訴えるのだ」とも言っている。
今になって、再び注目をされるようになったマクルーハンの言葉ですが、現状を見渡せば説得力が増すのもわかります。
フロンティアとは時代の前線、つまり現代を生きている私たちのほとんどが属している社会であると考えられます。
確かに、物理的にも言葉としても、世界が非常に暴力的になっていると思われます。
自分が誰であるか、「認めてほしい」、「示さなければならない」という思いが背景にあるのも頷けます。
分業化、孤立化によるアイデンティティ喪失
自分のアイデンティティとは、考えてみるとそれほど簡単に示せるものではありません。
特に日本人であれば、長い間、所属する組織とそこでの役職、実績などがアイデンティティそのもののようにみなされてきました。
サラリーマンという働き方が浸透する前であっても、魚屋の鈴木さん、八百屋の佐藤さんというくくりはあったでしょう。
また、昔ほど、地域社会の中に溶け込み、職業を通さずとも一人の人間として地域に受け入れられていたことでしょう。
しかし、現在の社会では、組織の複雑化、分業化、そして個人の孤立化が進みました。
会社名は知られていても、その人のことは、よく知られていないということが当たり前です。
さらに、一人だけでは何一つ業務としては完結しないということも多いはずです。
それどころか、代わりはいくらでもいるとまで言われる始末。
そのため、組織に属していることで、アイデンティティを強く認識することが難しくなっています。
存在価値や意味に疑問を覚える人も増えています。
そこに不安を覚える人が、周囲を攻撃しやすくなるという構図はよく見られます。
さらに世界では、格差問題、人種問題なども深刻化し、暴力性、攻撃性が高まっています。
ネット社会によるアイデンティティ喪失
そのような社会環境にあって、急激に発達しているのがネット社会です。
現実社会とは別の世界が広がっています。
本名を出すことなく、新たな人格を作ることも可能である反面、新たにアイデンティティを確立することに追われる人も増えました。
そこで、現実社会では言えないような主張をすることで、ネット上にアイデンティティを見出す人もいます。
中にはVRなどを利用して、年齢や性別も超越したアイデンティティを求めることもできます。
ただし、ネット上でも、アイデンティティを認められることは、それほど簡単ではありません。
匿名性があるため、自分のアイデンティティを求め、不安、不満を持った人たちの攻撃性は一層高まります。
ネットでの誹謗中傷や炎上の事例が相次いでいます。
世界を見渡しても、過激な言論や、陰謀論まで出て来てしまうのが現状です。
デジタル化によるアイデンティティ喪失
今後、デジタル化が進み、私たち個人は、IDで管理されるような社会になるかもしれなません。
数字とデータでしかなくなれば、それは私たちが必要とするアイデンティティとは言えません。
必要性が認識されていない、ただ存在するだけと感じれば、さらに攻撃性が高まることが予想されます。
このような時代の流れを考えれば、いかに強く自分のアイデンティティを認識することができるかが大切です。
そこでポイントとなるのが、認め合える空間ではないかと思います。
アイデンティティを認め合える空間が必要
他者から必要とされている、受け入れられていることで、自分のアイデンティティを認識することができます。
そうなれば、暴力性はなくなるはずです。
そういった場所をいかに作り認識するかが、今後も重要な課題になりそうです。
仕事にアイデンティティを見出す場合
一日の大部分を仕事に費やす人がほとんどでしょう。
自分の仕事に強いアイデンティティを持つことができれば素晴らしいことです。
しかし、先ほども少し触れましたが、複雑化、分業化する社会の中では、簡単なことではありません。
封建社会であれば、人の移動もなく、職業も固定化されていたため、疑う余地なくその人のアイデンティティとして認識されていました。
現在は、自由に選んでよい代わりに、認識されること自体が難しくなっていると言えます。
現実問題として、全ての人が、仕事に強いアイデンティティを持っているわけではありません。
所属組織と役職にアイデンティティを見出そうとしながらも、不安なまま、非常に攻撃性のある人も目立ちます。
また、退職すれば、当然そのアイデンティティは弱くなることも忘れるべきではありません。
全ての人が、仕事にアイデンティティを求めることは、今の社会構造上無理があると言えます。
富にアイデンティティを見出す場合
富や金銭的な成功が、アイデンティティを強くするという考え方もあるでしょう。
成功体験を語ることは、まさに生きた教材となります。
他人から必要とされる機会も増えるでしょう。
しかし、言わずもがな、格差が広がり富が集中する資本主義社会においては、これを実現する人はごく一部です。
ネット上でアイデンティティを見出す場合
現実社会では、学歴、職業、年齢、性別などを超越してアイデンティティを持つことは難しいでしょう。
それならばと、ネット上で、それらを公開せず、もしくは架空のプロフィールを使用して新たな人格を得る人もいます。
VRなどの、特徴的なコミュニティもあるようです。
ただし、ネット社会においても、誰もが認識されるわけではありません。
誰かと繋がることは簡単かもしれませんが、離れることもまた簡単です。
非常に不安定であると言えます。
また、排他的な傾向にあることも注意したいところです。
現実社会よりも攻撃性が高く、誰もが安心して認め合える空間ではないことも多々あります。
地域社会というコミュニティ
仕事にせよ、金銭的成功にせよ、ネット上の空間にせよ、アイデンティティ強化を果たせる人は一部だけである旨説明しました。
残念ながら、不平等が前提となっている社会です。
この問題を乗り越え、どうやってお互いにアイデンティティを主張し、認めていくかが重要です。
そこで、より網羅的に、アイデンティティ強化に寄与するものを考えると、地域社会というコミュニティに行き着きます。
結局今の社会は、お金や社会的地位などを軸に繋がる関係が多いため、アイデンティティを喪失する人が増えることになります。
一方、地域社会の元にあるのは、家族であり友人であり、ご近所さんであり、横の関係です。
生身の人間と、仕事や利害関係以外の繋がりを持てるところが魅力でしょう。
多くの人は、学生時代の友人は一生ものの宝だと言います。
仕事や社会的地位、利害関係などなく、当たり前にいるべき存在として認められている安心感があるからでしょう。
仕事上有利だからとか、この人と繋がっておくと得だからという理由はありません。
その人の存在自体が、繋がる理由です。
そこには、揺らぐことのないアイデンティティがあります。
新たに学生時代の友人のような関係を作ることは難しくても、横の関係を広げることは可能です。
それができるのは、地域社会が一番でしょう。
都市部では、地域の中の役割という概念はほとんどなくなり、隣近所に住む人の顔すら認識していないことも珍しくありません。
その結果、都市部のほうが、より殺伐としているのかもしれません。
コロナ問題の影響もあり、以前よりも、人口の分散化は進むと思われます。
Iターン、Uターン希望者も増加中のようです。
その中で、人気を集めている地方を見ると、魅力的なコミュニティがあることに気づきます。
軽井沢などはその典型でしょう。
面倒な人間関係ということもあるかもしれませんが、アイデンティティ喪失の時代にあっては、是非とも大事にしたい横の繋がりです。
最後に
現代社会では、至るところで、自分のアイデンティティを示すことに追われているように思います。
それは、利害得失を基本にした関係であり、いかに周りよりも優れて見せるかといった競争意識も関わっています。
そのため、自分のアイデンティティを強く認識できない人が必ず出てくることになります。
暴力性とは、アイデンティティを求める行為であるとマクルーハンは言っています。
今の殺伐とした社会の先にあるべき展望としては、地域社会における横の繋がりが大きなキーワードになるように思います。
これまで、無関係、無関心であった人も、今後の選択肢として考えておくのも悪くないのではないでしょうか。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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