こんにちは!Jimmyです。
割と幼い頃から、「他人の不幸は蜜の味」という言葉を知っている人が多いのではないでしょうか。
非常にわかりやすい例えであり、人の世の中をうまく言い表しています。
その通りだと実感している人、隠そうともしない人、自分は違うと否定している人、実際に示す反応は人それぞれです。
今回は、「他人の不幸は蜜の味」が誰にでも存在する感覚である決定的な理由と、それを認めて受け入れること、その上で持つべき考え方について考察していきます。
他人の不幸は蜜の味は万国共通
外国語ではこんな表現
「他人の不幸は蜜の味」とは、人の不幸を見て喜びを感じることです。
日本語ではこのような例えで言い表されていますが、外国でも同じような意味の言葉は存在します。
有名なのは、ドイツ語が語源となっている、シャーデンフロイデ(Schadenfreude)ではないでしょうか。
不幸を表す言葉と喜びを表す言葉を組み合わせて作られた言葉で、英語としてもそのまま使われているそうです。
中国にもありました。
春秋時代の春秋左氏伝の中に、「幸災楽禍」(災いを幸いとし、禍いを楽しむ)という言葉があり、四文字熟語として存在しています。
宗教での戒めと私たちの感覚
他人の不幸を喜ぶような感情は、古くから宗教の中でも戒めの対象とされてきました。
仏教では、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)と呼ばれる煩悩を戒める教えがあり、妬みなどの感情は三毒のうち最もよくないとされている「愚痴」(現代語の愚痴とは違います)に属すると言われています。
キリスト教でも、妬みの感情は七つの大罪の一つに数えられています。
そのような流れもあって、現代を生きる私たちも、他人の不幸を願い喜ぶような考えはよくないということは多くの人が認識しています。
そして、もし心で思うようなことがあっても、多くの場合、感情や言葉として外には出さないようにするべきとされています。
他人の不幸は蜜の味になる決定的な理由
善悪という基準が答え
「他人の不幸を喜ぶ」感覚は、日本だけでなく世界の各地域にも存在し、宗教の教えや日常的な道徳観念の中で戒めの対象となっていることがわかります。
そのためか、自分は他人の不幸を喜ぶようなことはない、よくない人の考え方であると主張する人も少なからずいます。
しかし、このような感情は誰にでも多少はあるものです。
理由は、人は必ず主観的な善悪という基準を持っているからです。
善悪の基準は誰もが(子供であっても)自分の中に持っています。
それを持っている以上、「他人の不幸は蜜の味」という感覚も誰もが持つことになるということです。
善悪の基準とは、最もわかりやすい、「人の命を奪う人=悪」というものもあれば、非常に曖昧な善悪も存在します。
例えば、「自分は生活が苦しい中、汗水たらして毎日働いているのに、あの人は会社を経営して一生かかっても使い切れないくらいのお金を稼いでいる」という状況です。
そこで、「きっとあの人は多くの人を犠牲にしてお金を儲けているのだろう」、
もしくは、「自分よりも不当に幸せを手にしている」という理由を勝手につけて相手を悪とみなします。
(このような妬みの考え方をルサンチマンと呼びますが、詳しくはこの後、ニーチェの考え方で説明します。)
つまり自分が善で経営者が悪という図式を作り上げているのです。
このように、多くの場合、自分と比較して他人を善と悪の程度で判断していることになります。
そして、ご想像の通り、悪とみなした人に不幸が起きると喜びを感じるのです。
ニーチェの思想 善悪の考え方
ニーチェの考え方を借りれば、善悪というものに絶対的な基準はなく、全て人間が決めてきたものです。
そして、道徳的な善悪判断の起源となっているのは、身分が低いものが高いものに対して持った妬み(ルサンチマン)であるとされています。
弱い立場にいる自分たちは、現実として抵抗することはできないから、せめて道徳的な善人になろうという理屈になります。
善人とは、「暴力も抑圧も加えない、そして辛抱強く謙虚で公正な者である」と自分たちで定義するわけです。
つまり、道徳という考え方を根拠に、自分たちは善い人、強い立場にいる支配者階級は悪い人となっているわけです。
極端ではあるものの、人間が各々の立場によって善悪の基準を都合よく決めていることに対する、説得力のある考え方であると思います。
押しも押されぬ有名人や成功者の失敗やスキャンダルのニュースを聞いて、悪い気はしないということはないでしょうか。
そのような思考が働いていると考えることができます。
ニーチェは、このような弱者にいる立場の考え方を痛烈に批判しており、尚且つキリスト教なども真っ向から否定しています。
善人の不幸には喜ばないという事実
自分基準で都合よく、他人に対して善悪を考えているということ、悪と判断された人に不幸が起こると嬉しい気分になるということを説明しました。
別の見方をすれば、善であると認めた人に不幸が起きた場合は、嬉しい気分にはならないということになります。
例えば、自分の大親友。
自分がピンチの時に助けてくれた人、人格を尊敬しているような友人を想像してください。
そんな人に不幸が起きれば、自分も悲しい気持ちになり心も痛むでしょう。
知らない人であっても同じです。
実際、このようなニュースがありました。
苦学生が、将来の夢を叶えるために勉強しながらアルバイトをして、なんとか学費を稼いだ矢先に、詐欺にあって一文無しになってしまった。
知らない人であってもいたたまれない気持ちになるでしょう。
苦学生は多くの人から見て善という判断です。
一方、とあるセレブ芸能人が、自分の信頼していた人から裏切られてお金を失ったというニュースがありました。
実際、多くの人が同情しなかったようですが、様々な理由はあれど、その人は善とはみなされていなかったのでしょう。
ただ、各々が都合よく決めているわけですから、善悪の基準などは一瞬で変わります。
気に入らないと思っていた芸能人のスキャンダルを聞いて喜んでいたものの、
あとでその芸能人の苦労話や、社会貢献活動などの事実を知ったらどうでしょうか。
例えば、実は両親、兄弟あわせて10人の生活を支えていた、病気の妹の手術代、弟を進学させるために一生懸命働いていた、派手に見えるのはキャラクター設定のためだったと知れば、180度考え方が変わり、同情するかもしれません。
善い人と悪い人の判定が変わる典型です。
因果応報、罰があって然るべきという考え
「私は人を妬んだりしない」と言っている人であっても、善悪基準は持っています。
ですから、悪い人だと考えていた人によくないことが起きれば、悪い気持ちにはならないはずです。
例えば、利己的な行いとパワハラを繰り返し、部下を苦しめる上司が、失敗をしてクビになったとしたら、きっとスッキリとした気分になることでしょう。
それは「法律違反だから」、「勧善懲悪、因果応報の原理に基づけば、、」などと言われるかもしれませんが、スッキリした気分になるのは事実でしょう。
そのような「スカッと」を題材にしたメディアの番組もあって人気を集めているほどです。
道徳的見地に立った「因果応報論」と、妬みによる「いい気味だ」の気持ちの境界線などは明確にはありません。
何れにせよ、何らかの罰(不幸)を受けて当然だという気持ちがあるだけです。
相応な不幸までしか望んでいない
善と悪という判断には、当然ながら程度の問題は存在します。
一人のある同僚について、何の努力もしないで、要領よく出世コースを歩く人、つまり悪として見ている人からすれば、その同僚が仕事で失敗をして叱責を受ければ、晴れやかな気持ちになるでしょう。
しかし、不慮の事故を起こして命を失うようなことになれば、嬉しい気持ちなどは吹っ飛んでしまうはずです。
そこまでの不幸は望んでいないということです。
つまり、これも主観の問題で、各々がどれだけ、その人のことを善であるか悪であるかとみなしているかによって変わってきます。(そもそも要領よく努力していないというのも完全な主観です。)
「こんな罰があればいいのに、こんな不幸があればいいのに」と思っている程度を明らかに超えた不幸に対しては、蜜の味にはなりません。
堂々と生きるために取るべき行動と考え方とは?
受け入れるべきこと
「他人の不幸は蜜の味」というのは誰にでもあることを認める方が自分にとってもプラスです。
そうしないと先に進めません。
現実を見ないと理想論と虚像の自分にとらわれて、正しい認識ができないということです。
自分は現実以上に高邁な人間だと思ってしまえば、そこにこそ重大な弊害が発生します。
そういう人ほど、自分の非に気づかず、また認めることを恐れます。
重要なのは、その先どうなるかというと、結局他人を非難することになるということです。
「自分はよくないことはしない人、他人はよくないことをした、だから非難して当然」となるのです。
先ほども少し触れましたが、他人の不幸を喜ぶという感覚ではなく、勧善懲悪の観点だから自分の感覚は正当なのだと思ってしまうのです。
宗教的な教えや、幼い頃から教えられてきた教訓でもあり、他人の不幸を喜ぶ自分を肯定できない人も少なくありません。
しかし、自分はそんなはずはないとモヤモヤするよりも、受け入れた方が建設的です。
何か良からぬことを思うたびに、「いけない、いけない」と思っていては前向きにもなれません。
受け入れた上でどうするべきか、どう振る舞うべきかを考えればよいのです。
私が集中してこのブログを書いている外で、若い学生さんたちが、大声で何かを叫び合いながら歩いています。
私自身、昔はお調子者の学生だったため、彼らが一切を改めるべきとは思いません。
それでも、うるさいものはうるさいというのも事実で、今の私の器はその程度なのです。
完全に仏の心を目指そうとするよりも、笑いながら「犬の糞でも踏んで、すこーしだけ凹んでくれたらいいな」くらいに考えた方が爽やかではないでしょうか。
そう考えて笑ってしまえば、不思議とそれ以上イライラするようなこともありません。
長い間、芸能界の頂点に君臨する大御所芸人に対して、
「いつまでもお元気でいてほしい、これからも勉強させていただきたい」
などと言うよりも、
「困りますよー、若手詰まってるんですわー」
と言った方が爽やかです。
大事なのは陰険にならないことです。
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正すべきこと
自分にも、「他人の不幸は蜜の味」という感覚があると認識した上で、持つべき考え方を3つ示します。
自分に集中するための考え方
他人の不幸を喜んだ時も、誰かの成功に悔しい思いをした時も、すぐに視点を自分に戻すことです。
他人の言動や成功・失敗によって自分が先に進むこともなければ、後退することもありません。
自分の立ち位置を前に進めることができるのは自分だけです。
切り替えと言ってもよいと思いますが、とにかく他人の結果を長いこと考えないという習慣が必要です。
よいことでも悪いことでも、他人の結果について考えるのは特に時間の無駄です。
他人のことを考えるのであれば、何かその人のために自分がしようと考えるからこそ意味があります。
脇見運転をしないで、自分の席についてハンドルを握るべきです。
そして少しでも前に進むべきなのです。
大きな善に向かうこと
真面目な人の中には、「自分はまた他人の不幸に喜んでしまっている」と反省する人がいるかもしれません。
そのような時こそ、人間は皆似たような感情があることを認識した上で、受け入れることが肝要です。
そして、その次元よりも少し高い次元の善を実行できるように心がけるとよいでしょう。
多少の矛盾を抱えながらも、より大きな善に向かって進んでいるうちに、自分の周りに見えるものも、いる人たちも善が増えていく感覚になるように思います。
善に向かって進んでいくと、自己肯定感が次第に高まり、いつの間にか、相手を相対的な悪とみなすことも少なくなるということです。
自分の正しさを考えること
自分にとって何が正しいことか、つまり自分の目指すべき人格を明確に考えることです。
他人によって示されるものでも比べるものでもなく、自分で考えるものです。
それが明確なゴールとなって、最終的に自分なりの幸福感になります。
幸福感が増えれば、自ずと周りの見方も変わります。
自分が感じている幸福感が小さければ、周りを悪とみなす傾向が大きくなり、幸福感が大きければ、周りを善とみなすようになります。
意外と単純なものなのだと思います。
重要なのは、幸福感は人によって様々であり、正解もない、そして曖昧なものであるということです。
だからこそ、当たり前のように全員が目指しているのに、多くの人が具体的に自分の幸せの定義を言えないのです。
自分の正しさ、生き方を明確にすることが、幸福感の定義を明確にする近道です。
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まとめ
長々と書いてきましたが、「他人の不幸は蜜の味」というわかりやすい表現もあるからでしょうか、他人に発生した不幸を喜ぶのはよくない、自分はそんな人間ではないと考えている人も少なくありません。
しかし、この感覚は、誰にでもある人間の当たり前の反応です。
理由は、人間は必ず、自分の基準で、善と悪を判断しているからです。
善悪自体が絶対的なものではなく、各々が都合よく解釈するため、基本的には自分を善として、自分の感覚や境遇にあわせて相手の善悪を判断します。
そして、相対的に悪と判断された人に、不幸やアンラッキーなことが起こると嬉しい気分になるのです。
その背景にあるのが因果応報であれ勧善懲悪であれ、何かしらの罰が下って然るべきだと考えているのです。
だからスカッとするわけです。
反対に、自分にとって善にあたる人に不幸が起こっても、蜜の味にはなりません。
善悪の基準を人が持っている以上、悪と判断している人によくないことが起きれば、人はプラスの反応を示すものです。
それを受け入れた上で、どう行動するべきかを考えることが重要です。
他人の結果を気にしていても、自分は先に進めないこと、つまり自分の視点にすぐに戻ること、
矛盾を抱えながらも、少しでも大きな善に向かって物事を考えること、
そして自分の正しさ、生き方を明確する中で幸福感を増幅させていくことで、周りは自然と善が増えていくはずです。
集中すべきは、自分の幸福感とは何か、自分の生き方とは何かを追求することと言えます。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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