上杉鷹山から考える真のリーダー像、あの名言の背景とは?

上杉鷹山の名言と、生きた時代背景

こんにちは!Jimmyです。

リーダーシリーズ、今回は江戸時代の米沢藩の名主である上杉鷹山(うえすぎ ようざん)を紹介します。

 

上杉鷹山の凄さを現代人で例えることは難しいのですが、

一言で言うと、名経営者と名政治家を同時に実現した人です。

 

そんな上杉鷹山の功績、リーダーとしての資質を紹介し、具体的に何がすごかったのか、なぜ時代を超えて賞賛され続けるのかを書いていきます。

 

まず、誰もが知っているのは、上杉鷹山という名前よりも、名言の方かもしれません。

 

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も

成らぬは人の 為さぬなりけり

 

一度は聞いたことがある言葉だと思いますが、鷹山自身「為せば成る」を大変過酷な状況の中、実行して見事に実を結ばせました。

 

上杉鷹山は、1751年生まれ、江戸時代の中期に生きた人です。

上杉家の家系ではなく、高鍋藩(石高は3万石)という小さな藩の出身です。

名門上杉家の養子となって米沢藩主になりました。

 

藩主になったのが17歳で、実に50年以上にわたり藩の改革を行いました。

日本一貧乏な藩を日本一豊かな藩に改革した実績と、それを可能にした源泉とも言うべき人格は、

今でも多くの人を惹きつけています。

 

名門上杉家の変遷補足

日本一貧乏な藩と書きましたが、少し上杉家と時代背景を補足します。

上杉家と言えば、誰もが知っているのは戦国大名の上杉謙信でしょう。

全盛期の謙信の時代には、越後を中心に領土を持ち、石高およそ300万石を誇りました。

 

その後会津に移っても、120万石を超える石高を誇った名門上杉家でしたが、

関ヶ原の戦いで西軍についたことをきっかけに大幅に減封され、米沢へ移封。

後継問題などもあり、米沢藩第4代藩主綱憲の頃(1664年)には15万石となりました。

 

しかし、名門としてのプライドと、「敵に塩を送る」ほどの「義」を重んじた藩の伝統があったのでしょうか、

減封された後も、藩士を削減することはなく、藩の財政は逼迫していきました。

収入は会津藩時代と比べて8分の1になっているのに、藩士をそのまま抱え込むのですから当然です。

今の企業でいえば、支出に占める人件費比率が9割超といったところです。

 

時代背景を考えると、鷹山の時代は、江戸幕府としても財政状況は楽ではない時代でした。

参勤交代の負担に加え、幕府からの命令で公共工事も指名された藩が手伝うことを求められました。

地方特性を考えれば、元々東北地方は産業が盛んな地域ではありませんでした。

 

このような土台に加えて、

  • 名門家が陥りがちな危機感の欠如と見栄
  • 農民などの働き手の流出
  • 藩主の無関心
  • 資金管理の甘さと借金増加

などから状況はますます逼迫し、凶作なども相まって、鷹山の頃には日本一貧乏な藩となっていたのでした。

 

こういった状況の中、3万石の小さな高鍋藩から若者が養子となって、名門上杉家を継ぐことになったのです。

ただでさえ悲惨な状況に加え、抵抗勢力も相当にあることは容易に想像できます。

それら幾多の困難を乗り越えて、日本一豊かな国へと変えていくのですから並大抵のことではありません。

 

次に上杉鷹山が達成した偉業と影響について書いていきます。

上杉鷹山の偉業と後世への影響

上杉鷹山の偉業の詳細と、それに伴う幾多の艱難辛苦の有様は、一つずつ紹介すると膨大な量になるため、ここでは重要な点をピックアップすることにします。

実際に鷹山が成し遂げた偉業とはどんなものだったのでしょうか。

実績という観点で大きく以下の4つに分けて解説します。

  • 質素倹約
  • 殖産興業
  • 人材教育
  • 財政政策

 

質素倹約 自分の生活費は7分の1

上杉鷹山 施策

まずはじめに手をつけたのが質素倹約でした。

貧乏藩になったにもかかわらず、重臣たちは、名門家としてのプライドや形式を重視し、自分たちの華美な生活を改めることはしませんでした。

 

鷹山は、質素倹約を自らにも課し、生活費を前藩主の7分の1として、重臣たちの考え方を変えるように努めました。

50人いた女中(家の雑用、お手伝い)も、9人まで削減しました。

 

藩主としては異例なほど質素な生活でしたが、鷹山の倹約ぶりは生涯にわたって変わることはありませんでした。

 

また、伝統的な儀式の際にかかっていたあらゆる無駄な費用を削減、各身分に応じた衣服についてもできる限り簡素なものを着るような制限を加えました。

家の作りや、食べるものにいたるまで、非常に具体的に細かく示し、藩としての支出削減を推進しました。

 

後にも書きますが、ただでさえ苦しい中で、もっと節約しろと言われても、なかなか人はついてくるものではありません。

会社などの組織をイメージすればわかりやすいと思います。

 

鷹山自ら率先垂範したことに加え、倹約を進める中でも将来についての投資を続けたこと、

将来の展望を領民にも共有し続けたことで、見事に領民の心を掴んだのでした。

 

殖産興業が実を結び、飢饉でも餓死者ゼロ

上杉鷹山 施策

米沢藩は、産業が盛んな地域ではありませんでした。

米だけを作っていたのでは、収入増にも限界があります。

 

そのため、広く産業を興し、収入源を増やす必要がありました。

そこで、漆、桑、楮をそれぞれ100万本を植える計画を立てました。

 

いくつもの困難はありましたが、徐々に成果をあげ、次は単価の低い原料販売からの脱却を図ります。

付加価値が高い製品販売へのシフトです。

 

例えば、栽培した染物の原料ををただ売るよりも、自分たちで染めて製品を作ってから売った方が、より付加価値がつき利益も上がります。

当時、機織りの技術も無い米沢藩にとっては無謀な挑戦に思えましたが、なんとか職人を探し出して連れてきたり、技術視察に人を派遣したりして、次第に技術を取り入れいることに成功していきます。

 

また、生活必需品は、文字通り欠かすことのできない必要なものですが、他藩から買うと高くつくので、自給自足することを掲げ、塩や陶器を自前で生産できるように改革しました。

海の無い米沢藩ですので、塩を作るなどは無謀に思えますが、温泉から塩を抽出する方法で製造に成功しています。

鷹山の興した産業は、米沢織や米沢焼(成島焼)という形で受け継がれています。

 

なお、米沢藩は、天明の大飢饉の2年の間で、東北で唯一、一人の餓死者も流浪者も出さなかった藩であったとされています。

 

人材教育を重視し、人材登用を能力主義に

苦しい財政状況の中でも、鷹山は教育を大変重要視しました。

藩運営における、人の重要性を強く認識していましたので、教育のためにはかなりお金を費やしたと言えます。

 

長く閉じられていた藩校を再開させ、将来有望な武士の子供に対しての教育を実施しました。

名高い教育者をわざわざ遠方から呼び寄せるといった力の入れようです。

 

余談ですが、改革の後半になると、ここで学んだ門下生たちが鷹山の思想を受け継いて活躍するようになります。

 

武士だけにとどまらず、農民に対しても、学ぶ機会を提供しました。

読み書きができないのが当たり前の時代に、役人の一部を農村に住まわせ、農業の技術や、思想の教育を施すなど人を育てることに注力したことが伺えます。

 

人材の起用方法も当時としては異例でした。

身分に関わらず広く意見を求め、能力のある人間を登用するようにしました。

人物本位の人材登用です。

 

また、先ほども書いた通り、藩再建には殖産興業が必要でした。

当時の興業といえば、農業です。

農業をするためには新田の開発は欠かせません。

 

当時、人口流出が続いており働き手も不足する中、鷹山は、自ら鍬を取り、畑を耕すことで(籍田の礼)、

当時は農作業をするなど考えられなかった武士身分の人たちにも新田開発を担わせることに成功しています。

 

このようにして人材の意識を変え、教育を施し、質を高めていったことは、成功のための大きなポイントと言えるでしょう。

 

財政政策、破綻寸前からの復活

上杉鷹山 施策

関ヶ原の戦いを潮目に、どんどん悪化していった上杉家の財政状況ですが、鷹山の頃は悲惨としか言いようのない状態でした。

今の企業で言えば、ほぼ経営破綻した状態です。

借金は膨れ上がり、利子だけでも大きな負担となっていました。

 

これでは、いくら倹約して経費を切り詰めても状況は好転しません。

まずは借入の現状と資金繰りを細かく把握し、件別毎に豪商などの借入先に対して、誠意を持って、利子の免除や、返済期間の先延ばしを交渉し、資金繰りを緩和させていきました。

 

また興業をするとなれば、追加の資金が必要ですが、当時の状況で追加資金を貸してくれるところなどありませんでした。

信用を無くし、長く疎遠になっていた豪商との関係を粘り強く交渉し回復させました。

 

興業の計画や、返済が可能であることの妥当性を示し、何とか資金の目処を立てました。

破綻寸前の会社が、新規事業のための借入に成功するということは大変異例なことです。

 

不断の努力と研究により、実現可能性のある事業計画と返済計画を完成させ、さらに、人徳のある人間性が認められて、最終的に資金を引っ張ってくることに成功したのです。

 

後世の偉人への影響もすごい!

上杉鷹山の考え方、手法は、後に多くの人が学び、影響を受けています。

二宮尊徳(金次郎)、西郷隆盛、山本五十六など、各時代で尊敬されるリーダーとして、また稀代の人格者として名を残した偉人の多くも、上杉鷹山の考え方に影響を受けたと言われています。

 

日本にとどまらず、アメリカの元大統領ジョン・F・ケネディも、尊敬する人物を聞かれて上杉鷹山と答えたそうです。

不況真っ只中のアメリカを再建するべく、鷹山の施策を学んだと言われています。

 

後に、ケネディの長女であるキャロライン元駐日米国大使が、

「父(ケネディ大統領)は、上杉鷹山から学び、それが就任演説に代表される考え方に影響を与えたのだ」と話しています。

真のリーダーとして特筆すべきは「人格」

これまで、上杉鷹山の功績を中心に書いてきました。

功績だけを振り返ると、確かに厳しい状況の中、再建を果たした辣腕はすごいという思いが湧いてきますが、

真のリーダーとして、時代を超えて賞賛されている本当の理由は、鷹山の人格によるものです。

 

知識の量も豊富で、平凡な学者レベルであれば、鷹山の前では専門家然としていられなかったと言われています。

儒学に始まり、実学も徹底的に学んでいます。

当然、幾度となく難局を乗り越えてきた経験もあります。

 

しかし、本物の経営者であり政治家である鷹山の真髄は、類まれな高邁な人格にあります。

上杉鷹山の真のリーダーたる重要な所以を、大きく3つにわけて示していきます。

 

  • 利他の心・思いやり
  • ブレない信念
  • 率先垂範・現場主義

上杉鷹山 リーダー

利他の心・思いやり

上杉鷹山の行動の源泉は、領民のためにという強い思いでした。

現在でも、経営者や政治家が、私利私欲のために会社や組織を利用するという問題は度々取り沙汰されます。

ましてや、当時の封建制度における社会では、当たり前のように、「藩士・領民は藩主のためにある」と考えられた時代です。

 

そんな中で鷹山は、

「君主は国家と人民のためにあるのであって、領民を家来扱いにしてはいけない」

とする考えを貫きました。

 

生涯を、藩を豊かにするために尽力し、私腹を肥やすことは全く考えなかった人なのです。

人のためにという利他の心で動いているため、自然とそのやさしさが考えと行動に表れます。

 

身分の低い武士であっても、農民であっても、鷹山は大切な存在として本気で考えていたことが伺えます。

通常、藩主は身分の低い人に直接話しかけることはありません。

格式を重んじる文化では、身分の低い者が直接藩主と話をするなどは許されなかったのです。

 

そんな中、鷹山は、武士たちに労いの言葉をかけたいと強く思い、反対を押し切り当代限り(鷹山の一代限りの例外)ということで、直接言葉をかけることを前藩主の重定に認めさせたのでした。

藩主から直接労いを受けた藩士は、末代までの誇りとして感激します。

 

また、農民が忙しく田を耕しているところを通りかかった鷹山は、自ら手伝いを申し出ます。

鷹山だとは思わない農民は、後でお礼を届けるので住所を教えてほしいとして鷹山の住所を聞き、後で訪ねたところ、藩主の屋敷だったことに驚き、感涙したというエピソードもあります。

 

下級武士も農民も大切で重要な人だからこそ、教育も施し、現地の意見も取り入れ、将来の展望・希望も共有し、藩の逼迫する財政状況も隠すことなく公開して意見を求めます。

 

現代で言うところの「動機付け」や「コーチング」のテクニックなど確立されていない時代ですが、利他の心から動いた鷹山は人を動かす本質を理解する前に、行動に移すことができたと言えるでしょう。

 

利他の心とやさしさからくる行動は、領民のやる気と忠誠心を大いに刺激し、多くの人が厳しい状況でも鷹山についていくことができたのです。

 

なぜ、こんな高邁な人になれたのか?

ところで、なぜこのような高邁な考えを持った人物が生まれたのか、気になるところだと思いますので少し補足します。

もちろん、生まれつき高邁だったわけでも、最初から万能だったわけでもありません。

まして、これほどの偉業を一人の力で推し進められるはずはありません。

 

鷹山の人格形成には、幼少期から青年期までに出会った素晴らしい人たちの影響がなければ成立しないと言ってよいでしょう。

出身の高鍋藩は小さいながらも教育熱心であり、人材を大切した藩でした。

幼少期の世話役であった三好善太夫から、領民のための藩主であることを教えられ、徹底した人格、道徳教育に恵まれながらの成長でした。

 

上杉家の養子となる直前に渡された「上言書」は生涯、事あるごとに読み直していたと言われています。

その後、儒学の師匠である細井平洲と出会い、その思想に感化されます。

その影響で、絶えず学問に励み、自己研鑽を怠ることをしませんでした。

 

米沢藩士の竹俣当綱、藁科松柏、莅戸善政、教育係の佐藤文四郎など、理念を共に戦う藩士との出会いもまた、改革を進めていく上で大きな助けとなりました。

 

最初から失敗が無かったわけでもありません。

現場主義の徹底は後半から発揮されたもので、最初は目的達成を意識しすぎて、一部の人たちだけで方針を決定したため、反発も多く統制できませんでした。

殖産興業の初期は、情報収集不足のまま急いだため、他地域で高品質の原料生産に成功したことを知らずに実行し、苦渋を舐めたこともありました。

 

徐々に多くの人の意見を取り入れるようになり、思想と実践の両輪を経験することで、うまくいくようになったと言えます。

 

ブレない信念

長く藩を引っ張る中で、どうしても困難は発生します。

抵抗勢力や、大飢饉など、困難が多く発生しても、最終的に成功を手にしたのは、ブレない信念があってこそです。

高鍋藩出身の鷹山にとって、抵抗勢力との戦いは必然であり、大きな困難を伴いました。

 

細井平洲などからの教育の賜物でもありますが、若いうちからブレない信念を形成できたことが鷹山を名主とならしめたと言えます。

元々が優しい性格で、人に対して寛大な鷹山ですが、時には断固とした決断を下さなければならない時があります。

 

一つ事例を挙げるならば、七家騒動でしょう。

七家騒動

当時の改革は、藩主の鷹山と、それに賛同する改革派と呼ばれる一部の藩士(竹俣当綱が筆頭)が中心に行われていました。

一方、昔からの上杉家の伝統や家風を重んじる重臣たちは、倹約や儀式費用の削減などは到底受け入れられるものではありませんでした。

 

まして、3万石の小さな高鍋藩から来た若者が藩主となり、格式を軽んじ、さらに身分の低い人材まで登用し出す始末で、腹に据えかねたのでしょう、

重臣7人が、連名で署名して、鷹山と、当綱などの改革派を糾弾したのでした。

 

幸いにも前藩主である重定は、鷹山の味方をしてくれたため、その場で反逆藩士たちを有無も言わさず処分することもできたのですが、糾弾書面に基づき事実調査を行い、公正に判断を仰ぎました。

その結果、改革派(鷹山側)の行動は真に藩のためになるものであると結論が出ました。

 

騒動を起こした7人のうち、首謀者は切腹、斬首などの重い処分を、他の者にも、家名断絶、役職罷免や謹慎などが言い渡されました。

 

断腸の思いでとった決断だと推察しますが、重臣の抵抗勢力をこのまま放置すれば改革は進みません。

ブレない信念があったからこそ決断できた処分です。

 

なお、これらの処分を受けた藩士の子孫であっても、その後復職が認められたり、有用な意見であれば採用される事実などを見れば、鷹山の懐の深さがわかります。

 

率先垂範・現場主義

破綻寸前の米沢藩を再建するには並大抵の努力ではできません。

藩主の努力に加え、藩士たちが信じてついてきてくれること、そして真に有効な戦略が無ければ達成し得ないことです。

 

鷹山が事を成し遂げた大きな要因は、率先垂範と現場主義の徹底にあります。

 

先ほども書いた通り、倹約を宣言し、自らの生活費を7分の1に削り、学問を推奨すれば自らが一番精進しました。

武士でも新田開発に参加させようと考えれば、まずは自ら鍬を持ち畑に入りました。

藩主自ら実践する姿に感銘を受け、奮い立った領民は大勢いたはずです。

 

そして、徹底的な現場主義・ボトムアップにより、真に有効な施策を全員の力で考え定めていきました。

現場視察を積極的に行い、意見を聞き、施策に反映しました。

 

農民の窮状を知ると、「郷村教導出役」を配置し、農民支援と意見収集にあたらせました。

役人を農村に住まわせ現状を知る仕組みづくりと言えます。

 

財政状況などは全て公開して、広く意見を求めました。

農民であっても人材教育に力を惜しまなかったことは先ほども書いた通りです。

 

そんな鷹山の思想をうかがい知ることができる言葉を、『上杉鷹山リーダーの要諦 佃律志著』より抜粋します。

畳の上にいては、農民の感情、田地の実態を知ることはできません。

村々を巡回し農家の利益と損害を明らかにしていくことが最も大切なこと。

領民の口をふさいではいけません。川をふさぐと水は横に流れます。

人の口をふさぐと災のもととなります。

情報を提供し、教育をして共通の認識のもとに発言させないといけません。

 

最後に

いかがでしたでしょうか。

これまで、上杉鷹山の偉業の事実と、それを可能にしたリーダーとしての人格について紹介してきました。

 

後世の多くの偉人にも影響を与える真のリーダーであることは間違いありません。

これらのことを、今私たちが全て真似できるかと言われれば、おそらく難しいでしょう。

それほど、気の遠くなるようなとてつもないことを達成した人物です。

 

一方で、現代の生活や、仕事にも通じる大切な学びがたくさん含まれていることも事実です。

上杉鷹山の真髄である、「利他の心、やさしさ」、「ブレない信念」、「率先垂範・現場主義」には現代の私たちが、仕事や人と関わる中で抱える多くの問題を突破するためのヒントが含まれています。

 

芯となる考え方と、行動原則を学び、自分の内面と向かい合うための素晴らしい教材になるのではないかと思います。

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以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

歴史に学ぶリーダー像、人間としてのあり方について、以下の関連記事も是非ご覧ください。

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