真田幸村から考える真のリーダー像、日本一の兵が時代を超えて人気の理由

こんにちは!Jimmyです。

今回はリーダーシリーズ、真田幸村(信繁)を紹介します。

大河ドラマ「真田丸」や、戦国ゲームなど、最近でも人気を集めているようですが、江戸時代から今に至るまで、高い人気を誇っている武将です。

色々な描かれ方をされていますが、リーダー真田幸村として、何がすごいのか、これだけ人気がある理由について解説していきます。

たったこれだけ!?真田幸村の戦歴

大坂の陣まで、実は2回しか実戦経験がなかった

真田幸村は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将です。

戦国時代には、現代でも人気の武将が大変多くいます。

天下統一を果たした豊臣秀吉、徳川家康はもとより、織田信長、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗など、常に好きな歴史上の人物ランキングに入っています。

それらの武将と人気を伍するのが真田幸村です。

 

では、何がすごかったのか、戦国時代の武将と肩を並べるほどですから、数々の輝かしい戦歴があったのでしょうか。

実は、真田幸村が実戦で戦ったのは、大坂の陣を除くと、たった2回だけです。(記録として残っているのは2回だけです。)

しかも、特に幸村が活躍したというよりは、何れも父真田昌幸がトップに立って、陣頭指揮を取っていたものとされています。

 

大坂の陣の真田幸村

そういうわけで、真田幸村が、ここまで有名になり、時代を超えて人気を得ているのは、大坂の陣での活躍に尽きます。

幸村は豊臣側(豊臣秀頼)についたため、戦自体は負けなのですが、圧倒的劣勢の中で、家康を困らせ、ギリギリのところまで追い詰めたことで広く語り継がれるようになりました。

 

大阪城の南側に出丸を築き(これが真田丸)、1614年の大坂冬の陣にて、徳川軍を翻弄します。

お城には本丸があって、二の丸、三の丸があるわけですが、出丸は、その外に堀や石垣、土塁などによって作られる陣地です。

幸村の指揮のもと、幸村を慕ってついてきた兵士たちによって、大坂冬の陣における最も大きな働きをしたのが、この真田丸でした。

これによって、家康は幸村の実力を認識するところとなりました。

 

和議に持ち込んだものの(実際は家康の策略)、大阪城の堀は埋められ、真田丸も取り壊され、1615年の大坂夏の陣では、豊臣側はさらに苦しい状況に立たされます。

勝利の見込みはほとんど無いことを認識していた幸村は、「目指すは徳川家康の首ただ一つ!」として、部下とともに、一丸となって、家康本陣を目がけて突き進みます。

 

多勢に無勢ながら、錐(キリ)で穴を開けるように、次々と徳川軍を突破し、あと一歩のところまで家康を追い詰めます。

ここまでのピンチを全く予期していなかった家康側は、慌てふためき、その場から逃げ去る兵士まで出てきました。

家康も、一時は「自害をする」と言って取り乱したほど、凄まじい勢いでの進撃でした。

 

結局、三度目の突撃で力尽き、最後は討ち死にしますが、徳川側にて残された歴史書にも、幸村の勇敢さや戦術を褒め称えるものが残っています。

島津忠恒が国許に送った手紙には、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と記されました。

寄せ集めの兵を束ねて、知略と勇敢さをもって、家康をあと一歩のところまで追い詰めた真田幸村の名は、後世に語り継がれることとなりました。

日本一の兵・真田幸村のリーダー像とすごさ

実績なら幸村よりも父・真田昌幸がはるかに上

実力者・真田昌幸

先ほど述べたとおり、真田幸村の戦歴としての記録は大坂の陣以外はほとんど残っていません。

武将としての実績や知略、真田家に残した功績という視点に立てば、断然、父真田昌幸の方が上であったと言えます。

 

幸村の父昌幸は、乱世において、権謀術数を駆使して大名としての真田家の礎を築いた人物です。

武田、織田、北条、上杉、豊臣、徳川と、実に巧みにくら替えを繰り返します。

もちろん、戦術においても優れており、昌幸は二度も、家康を窮地に追い込みました。

 

真田昌幸は家康の脅威だった

三方ヶ原の戦いは、武田信玄軍が家康・信長連合軍を打ち破った戦いですが、ここで家康は真田昌幸に痛恨の敗戦をしています。

第一次上田合戦では、数に有利な徳川軍が、昌幸率いる上田城を攻めますが、昌幸の作戦にはまり、敗北を喫しています。

城の中心部までおびき寄せておいての各方からの総攻撃。

そして敵が退却したところ、あらかじめせき止めておいた川を氾濫させて、多くを溺死に追い込むなど、知略を駆使して数に勝る徳川軍を圧倒したとされています。

 

真田昌幸の実力を思い知った家康は、後に大坂の陣で、真田が豊臣方につき、大阪城に到着したという知らせを受けて、「それは親(昌幸)か子(幸村)か?」とすぐさま問いただしました。

その時、戸にもたれかかった家康の手はガタガタ震えていたと言われています。

大坂の陣の時には既に昌幸は死亡しており、大阪城に着いたのは息子の幸村であることがわかり、落ち着きを取り戻したそうですが、それほどまでに真田昌幸を脅威に感じていたことがわかります。

実際、多くの武将が恐れた徳川家康に対して、昌幸は、「家康、何するものぞ!」と負ける気はなかったようです。

 

家康だけではなく、武田、上杉はじめ他の武将も昌幸の実力は認めるところであり、疑いようもないほど優れた能力を持っていたと言えるでしょう。

しかし、歴史に燦然と名を刻んでいるのはむしろ息子の幸村であるというのは、どういうことでしょうか。

やはり、知略や戦術だけではない、他の大きな要素が幸村にはあったと考えるべきでしょう。

 

真田幸村の性格

関ヶ原の戦いで、西軍についたことで、真田昌幸、幸村は高野山(後に九度山)へ配流となります。

徳川としては憎き真田家でしたが、東軍についていて、徳川四天王の一人本多忠勝の娘と結婚した真田信之(昌幸の長男、幸村の兄)の必死の説得によって、なんとか死罪は免れたのでした。

 

しかし、収入も絶たれ、貧しい蟄居生活を余儀なくされました。

蟄居生活の間に、父昌幸は死去します。

 

幸村はそのような状況下でも、九度山の農民や猟師たちと交わり、双六などで戯れたり、武芸を教えたりして良好な関係を築いていきました。

生活が困窮して焼酎をねだっていたというような話もありますが、それだけ対等な立場で何でも言い合える関係であったと見るべきでしょう。

 

大坂の陣での豪傑なイメージがある幸村ですが、93歳まで生きた兄信之によると、性格は、物静かで物腰柔らかく、忍耐力があり、怒ったりすることはなかったようです。

そんな人間性も影響して、ここで知り合った農民猟師たちが、後に幸村のもとで獅子奮迅の働きをすることになります。

 

また、父昌幸のような実績がなかったことや実兄が徳川方にいることから、

大阪の陣における肝心な戦略会議で意見が受け入れられないことが続きますが、そこでも怒ることも投げ出すこともなかったようです。

 

もはや勝ち目はない戦いの中でも、揺らぐことなく自陣を鼓舞し、大義を示し戦い抜いたところは、父昌幸とは違う幸村の魅力であると言えるでしょう。

 

なぜ部下はリーダー幸村についてきたのか?

関ヶ原の戦い後の九度山配流の際には、当然家臣のほとんどを連れて行くことはできませんでした。

大坂の陣で、幸村の下についたのは、わずかな家臣と蟄居中に九度山で親交を深めた農民や猟師たち、そして同じような立場にあった浪人たちでした。

正規の家臣たちによる武士集団ではなく、烏合の衆とも言える人たちで兵が構成されました。

そのような組織にもかかわらず、一人の脱落者も出すことはなかったというのは、幸村の人徳あってのことと言えるでしょう。

人がついてくる人間の特徴は、そのまま幸村が持っていた人格に当てはまります。

 

自軍の兵を自分ごとのように扱う器量

一人一人の人間として、相手を大切にしていたということが、決死の戦いにおいても瓦解することなく組織が機能した大きな要因です。

蟄居中に作り上げた仲間との関係が証明しています。

そもそも、蟄居中の九度山から、どうやって大阪城までたどり着けたのか。

監視の目もある中で、スムーズに移動ができたのも、九度山の人たちの援護があったからこそと言われています。

真田丸での奮闘も、夏の陣における最後の突撃も、実に見事に幸村の指揮のもと機能していたのですが、幸村が人格的な信頼を勝ち得ていなければ、このようにはなっていなかったでしょう。

事実、家康軍は、本陣まで攻めてきた真田軍を見て、軍旗や持ち場を捨てて逃げ出す兵士がたくさんいたわけです。

この戦いに限らず、戦局が不利になれば、逃げる、寝返ることなど当たり前にあった世の中にあって、この結束力はリーダーの大きな器量無くしては考えられません。

 

功名心になびかない一貫した姿勢

知略も欠かすことのできない要素であり、幸村にも備わっていた資質であると思いますが、父昌幸との大きな違いは、絶対に負けるとわかっている戦いでも、大義を貫き通したことです。

大義はしっかりとしたものがありました。

元々は豊臣家の天下であったものの、秀吉の死去により家康が豊臣家に背いて独自路線に走った経緯がありました。

義は豊臣側にあるとして、それを貫くことで、組織を奮い立たせることができたという側面があります。

 

また、何もなくなった自分を取り立ててくれた豊臣家のために、戦局が悪くなろうと、自分の意見が聞き入れられなくても、決して屈折することなく最善を尽くしたところも、幸村の優れた人格が表れています。

 

実際、冬の陣における見事な戦いぶりを見た家康は、幸村勧誘に動きます。

最初は10万石の条件を提示し、次には信濃国一国(おそらく50万石くらい)という破格の条件を幸村に提示したのです。

それでも幸村は全くなびかず、大坂の陣を自分の死に場所として選んだのでした。

義を貫き、功名心を捨てた幸村を、部下は尊敬し、信頼を寄せて、喜んでついていったのでしょう。

 

幸村の軍は、大きな大義と、リーダーの人格という支えがあったのに対して、家康軍は、功名心と損得勘定で動いていたように思います。

家康の叱責を受けて奮起したり、以前の不名誉を返上しようとしていた武将もいました。

しかし、関ヶ原の戦いと大きく違うことは、勝っても大きな領地拡大や恩恵は無いであろうとわかっていたことでした。

家康軍の士気としては、上がりきらないところがあったのでしょう。

 

結局、圧倒的な兵力の差があり、豊臣側が勝つことはありませんでしたが、軍の士気と統制という観点からは真田軍は秀逸であったと言えます。

 

大義を示して、人格で引っ張った真田幸村の活躍には、敵でありながらも多くの武将が感銘を覚え、後世になっても人気を博しているのも頷けます。

 

なぜこのような人物になれたのか?

幸村が大坂の陣でいかに活躍し、敵味方関係なく注目を集めたかについて説明してきましたが、なぜこのような人物になることができたのでしょうか。

人間の人格形成の過程については、想像するしかありませんが、幸村の生きてきた背景を考えると、関わった人たちのすごさに気づきます。

数奇な出会いが、幸村の人格を高めたのだと想像します。

 

人格、戦術、リーダーシップ、信念や義を貫くこと、上下関係など、それぞれの分野におけるオールスターのような人たちから直接影響を受ける環境にいたのです。

時代を超えて、名将として知られる本当にオールスターのような顔ぶれで、これ以上ないお手本ばかりです。

上杉景勝(間接的には謙信)、直江兼続、豊臣秀吉、大谷吉継、そして父真田昌幸(間接的には武田信玄の影響もあり)。

 

先ほども少し触れましたが、父昌幸は権謀術数を駆使して、ころころと所属先を変えていたため、幸村も人質として転々としていたのです。

その結果、上記のような人たちから直接学ぶ機会ができたわけです。

 

当然、稀代の知略家である父真田昌幸からは、戦術面で学ぶところが多かったでしょう。

上杉景勝からは、謙信から受け継がれている「義」の大切さや、私利私欲で戦をしないことなどの心構えを学ぶことができたでしょう。

名参謀直江兼続からは、ナンバー2としてトップを支える理想のあり方、そして兜に示されている通り民を「愛」することの大切さを、

豊臣秀吉からは、人心掌握術やリーダーとしてのあり方を、

大谷吉継(幸村は大谷吉継の娘と結婚)からは、戦術や人格などを学ぶことができたのではないかと思います。

 

これだけの偉人たちに直接影響を受けることはなかなか狙ってできることではありません。

生まれつきの人格もあるのでしょうが、このような人との出会いにより、日本一の兵・真田幸村が形成されていったと考えるべきでしょう。

真田幸村の生涯を簡単に振り返る

断片的に史実を取り上げながら、真田幸村のリーダー像と人格について解説してきましたが、最後に真田幸村の生涯と、その時代にあった主な出来事について簡単に記載します。

歴史の流れと一緒に振り返るようにします。(そもそも幸村についての記録がほぼありませんので本当に簡単な表になりますが)

西暦真田幸村の出来事世の中の出来事
1567幸村誕生。(1570年生まれという説もあり)1560年、桶狭間の戦いで信長が今川義元を破る。

1572年、三方ヶ原の戦いで武田信玄が家康を破る。父真田昌幸は信玄からの信頼が厚かった。

1585人質として越後、上杉景勝の元へ。

景勝、直江兼続の影響を受ける。

1年足らずで秀吉の元へ人質に。後に大谷吉継の娘竹林院を正妻に迎える。

1582年、本能寺の変、信長自害。

信長の死後、真田昌幸は、北条氏に臣従後、徳川、上杉、豊臣とくら替えをする。

1590対北条氏の小田原征伐に昌幸とともに参戦。1589年、兄信之が家康に臣従。

1590年、秀吉天下統一。

1600西軍入りを表明。上田合戦にて徳川秀忠軍と激突し圧倒するも、関ヶ原の戦いで西軍が敗戦し、高野山への流刑が決定。1598年、秀吉死去。

1600年、昌幸と幸村は西軍、兄信之は東軍に分かれることを決定。(犬伏の別れ)信之は後に上田藩主に。

1601九度山へ移り、蟄居生活。

蟄居生活中に、長男大助、次男守信誕生。

1603年、家康征夷大将軍、江戸幕府誕生。

1611年、昌幸死去。

1614大坂冬の陣、九度山を抜け出し大阪城に入城。

真田丸を築き家康軍を退けるなど活躍。

1605年、徳川秀忠が二代将軍となる。
1615大坂夏の陣、家康本陣に突撃し討死。1615年、大阪城落城。

まとめ

日本一の兵・真田幸村がこれだけ人気を博し、優れたリーダーであった背景を解説してきました。

活躍したのは、歴史の中ではほんの半年ほど、大坂冬の陣、夏の陣における奮闘だけですが、ここで徳川家康をギリギリまで追い詰めたことで、敵味方問わず、感銘を与えました。

 

そこまでの快進撃を可能にしたのは、もちろん幸村自身の知略もあってのことですが、それ以上に、部下に大義を示し、自らも一貫してそれを貫いてきたこと、

寄せ集めの兵士たちにもかかわらず、一人一人を大切にして、結束を強め人格で引っ張っていったこと、

そして功名心になびかず、負けるとわかった戦に最善を尽くしたこと、

これらがあってこそ、組織から一人も脱落者を出さない快進撃があり、後世になっても語り継がれる人気武将となったと言えるでしょう。

 

大義を示し、功名心を捨て、人格で引っ張るリーダー、これこそが真田幸村から学ぶべき、リーダーシップの真髄です。

 

以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

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