中国を理解する上で欠かせない人物、毛沢東
こんにちは!Jimmyです。
今回は、中国近代史の要点を振り返ります。
中国赴任が決まった人や、関心がある人は、一度整理してみてはいかがでしょうか。
毛沢東と文化大革命、大躍進政策を中心に、中国近代史を簡単にまとめてみました。
中国の近代、そして現代を理解する上で毛沢東は欠かせません。
学校の教科書に載ってはいますが、そこまで詳しく授業で扱われることはなかったと思います。
私も中国赴任が決まったときは、それほど印象があったわけではありません。
中国赴任が決まったけれど、中国のことをあまり知らない。
知っているのは、ここ数年話題になっている日中関係のことや、問題(大気汚染、粉ミルク、餃子)ばかり。
このような人はもちろん、簡単に中国の成り立ち、背景をおさらいしたいという人も一度読んでみてください。
ポイントを理解する上で、一番重要になる人物が毛沢東です。
ばらばらだった中国を、植民地の危険から救い、国を統一した英雄という側面が第一、
その後の政策失敗の主導者という側面が第二にあります。
”中国建国の英雄”という素晴らしい功績に比べれば、その後の失敗は、はるかに小さい、ということが中国としての見解のようです。
今でも至る地域で毛沢東の銅像を目にすることができます。
中国のすべての紙幣には、毛沢東が印刷されています。
それほどまでに影響力が大きい毛沢東を主人公に、中国の近代をおさらいしたいと思います。
中華人民共和国建国に至るまでの功績 〜1949年
毛沢東は1893年に湖南省の農家の子として生まれました。
若い時から頭が良く、記憶力は抜群だったようです。
勉学に励み、儒教の四書五経をはじめ、数多くの書籍を読み、社会主義思想にも触れました。
この頃の中国は、まさに混迷を極める時代でした。
誕生間もない1894年、日清戦争で日本が勝利します。(当時は清王朝時代)
欧米列強からは、”眠れる獅子”、”大国”として警戒されていましたが、意外とも言える日本勝利で、欧米からの警戒感が解かれました。
弱体化した中国の領土権益をめぐる争いが激化していきます。
日清戦争で日本が勝利し、下関条約で、遼東半島を割譲された後、三国干渉で返還されたというのは歴史の授業でもあったと思います。
日本のみならず、ロシア、ドイツ、イギリス、フランスが中国の各地を、租借という形で権力を得ていきました。
悲惨な状況です。
日本の明治維新同様、危機感を覚えた中国は近代化に走ります。
1911年、辛亥革命が起こり、弱体化した清は実質的に滅亡、1912年に中華民国が成立しますが安泰の時は訪れません。
革命後間もない1916年に袁世凱(中華民国の大統領)が死去。
列強の脅威だけに止まらず、国内も軍が対立を始め、まとまらない状態が続きました。
1919年、孫文により中国国民党が誕生した2年後の1921年に、中国共産党が成立します。
これに毛沢東も参加していました。
国民党と共産党は政権をめぐり、この後約30年にわたり争いを繰り広げることになります。
共産党で主導権を持ちつつあった毛沢東は、当時の封建制度で苦しむ農民の解放を強く意識していました。
地主の土地を没収し、国所有とし、農民に分け与えるという改革を進めて支持を得ていきます。
一方、1937年、日中戦争が勃発したことを機に、国民党との合作、抗日民族統一戦線を呼びかけ、徹底抗戦する形を整えました。
そして、ご存知の通り1945年、日本がポツダム宣言受諾、中国は戦勝国のうちの一国となります。
その後、国民党との争いが再開されることとなりましたが、ソ連からの支援や民衆の支持を得ます。
1949年、蒋介石を台湾へ追いやり、毛沢東は中華人民共和国を成立させるに至りました。
長く続いた混迷の時代に終止符を打ち、建国に至った功績は、現在でも最上級の賛美をもって讃えられています。
封建制度から農民を救った、
列強の侵略から国を守った、
中華人民共和国を建国したことで、毛沢東は確固たる地位を築きました。

経済悪化と大躍進政策 1949〜1959年
建国後、毛沢東はマルクスとレーニンの教義を基礎とした、独自の共産主義国家の実現に向けて歩み始めました。
しかし、今まで軍事力を背景に勝ち抜いてきた共産党は、巨大国家(当時でも5億人の人口)を政治的、経済的な手腕を持って運営する能力には欠けていました。
そのため国内の大半を占める農村地域では、近代化から完全に立ち遅れた貧困状態が続きました。
何とか状況を好転させたい毛沢東は、一時は国民に対し、腐敗や問題点について意見することを奨励し、耳を傾けようとしました。
しかし、予想以上に共産党の政策を批判する声が激しく、すぐに弾圧方針に切り替え、耳を塞いでしまいました。
そして1958年、苦肉の策として出された政策が、毛沢東を国家主席辞任に追い込むこととなる大躍進政策です。
大躍進政策は、
①農業の集団化による収穫量増加
②鉄鋼生産を農村部でも行うことによる工業生産規模の拡大
の二本柱です。
この政策により15年後にイギリスの経済規模に追いつくという目標を立てました。
しかし、待っていたのはとんでもなく悲惨な結果でした。
農業においては、「人民公社」と呼ばれる共産党直轄の部隊が生産と収穫を管理する方式をとりました。
問題は、人民公社で管理している人は党幹部であり農業の素人であるということです。
地方の特性や環境、農法など全く知らない素人が、生産する作物と方法を勝手に割り振り強制させたものですから、瞬く間に農業生産額は激減しました。
それでも、党幹部は自分の成果を上げたいために、虚偽報告をします。
備蓄を密かに取り崩したうえで、「共産党の施策のおかげでこんなにうまくいきました!」と嘘の賞賛を送り続けたのです。
鉄鋼生産においては、農村部で知識の無い人を無理やり集めて、原始的な溶鉱炉を作り、鉄を生産させようとしました。
原材料も、農具や鍋、釜などで不純物が多く、生産された鉄のうち、実に半分以上は工業に転用できない粗悪品となりました。
溶鉱炉の燃料となる薪を確保するために大規模な森林伐採も無計画に行なったため、各地で洪水、地滑り等の自然災害が発生しました。
これらの問題が重なった結果、1958年から62年までの4年間で2000万人もの餓死者が出たと言われています。
ちなみに日中戦争で戦死した中国人の数は諸説ありますが、100万人~500万人ほどではないかと思われます。
桁違いの数の人が、大躍進政策により餓死したことになります。
毛沢東の国家主席辞任と逆襲 1959〜1965年
こうなっては、共産党としては失敗を認めざるを得ません。
1959年、止む無く、責任をとる形で毛沢東は国家主席を辞任し、第二代国家主席には劉少奇が就任しました。
(ちなみにこの側近として鄧小平が中央委員会総書記に就任しました)
ここで重要なのは、毛沢東は国家主席は辞任したが、共産党の主席及び党の軍事委員会の主席の地位は保持したということです。
実質的な権力は無くなっていないということです。
一旦国家主席から身を引き、再度浮上するタイミングを探ることにします。
日本でも総理大臣や要職から去った後でも、権力を保持して議員席の後ろの方で偉そうにしている政治家を見かけますが、それと同じです。
実際には、日本のそれの100万倍の権力を持って身を引いたイメージです。
国防部長(国防相≒人民解放軍の頂点)には、自身の忠臣である林彪(りんぴょう)を就任させます。
林彪は軍人による「毛沢東思想」の学習を強く奨励しました。
この頃から「毛沢東思想」、「毛主席語録」などが相次いで発行され、軍主導で毛沢東の神格化に拍車をかけていきます。
後には軍の外部でも読まれるようになり、「毛主席語録」は最も権威のある本として民間の間でも爆発的に広がりました。
1966年からの10年間で毛主席語録だけで65億冊も製本されたようです。
全国民一人一人が複数冊持つのが当たり前のような桁外れな数です。
毛沢東思想には、大公無私(個人の利益より公共の福祉を優先する)、大衆路線(農村大衆の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)という概念があります。
資本主義に走るブルジョワ、知識階級に対する敵対心を煽ることで、巧みに民衆の心を掴んでいくようになります。
軍を林彪が統制し、毛沢東思想に傾倒させる傍ら、党の宣伝部文芸処副処長の肩書を持つ毛沢東の妻、江青が軍事的なクーデターにならないような形で、政権を毛沢東に奪還する作戦を考えていました。
「腐敗の温床である中国の古典文化を撲滅する」との名目で
まずは文化人や知識人を批判し、吊るし上げ、
次にそれに関係した現政権の要人たちを批判し、権力の座から引きずり降ろす、
という作戦を練っていました。
上海の文芸評論家姚文元や著名雑誌の編集長張春橋、労働運動指導者の王洪文とともに「上海組」と呼ばれる政治活動グループを形成し、言論、思想の面から、現政権を攻撃する準備をします。
マルクス・レーニン主義を唱える毛沢東の新しい価値観に対し、古くからの考え方は、以前のような腐敗(資本主義の再来)を招くよくないものであるとする主張です。
文化大革命とその後 1965年〜
1965年、下地作りの完成とともに、毛沢東は文化大革命を宣言します。
ここから約10年間にわたり繰り広げられた、革命という名の「政敵排除活動」の幕開けです。
「学術権威の反共産党、反社会主義的立場を徹底的に暴露し、学術会、教育界、新聞界、文芸界、出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判し、これらの文化領域における指導権を奪い取れ!」
といった旨を文書で配布しました。
これに触発された学生運動家たちは、「紅衛兵」を結成し、所謂文化人狩りを行なったり、知識階級に暴力をふるいながら糾弾する活動を行い、これが全国に広がっていきました。
資本主義派(走資派)の人間や、反共産党と非難された人間を次々に迫害していきました。
毛沢東側が反共産主義と名指しした人物は、紅衛兵たちによって迫害を受けることになりますが、
暴力も含めて毛沢東が正当化する旨発言していたため、学生たちは正義感の中で迫害を行なったということになります。
事態を打開しようと劉少奇国家主席は、毛沢東と林彪の共産党除名処分の討議にかけようと画策しました。
しかし、側近であった鄧小平は、局面は毛沢東側に有利と見るや、「中立」の立場をとるようになり、劉少奇の画策は失敗に終わります。
その後、劉少奇はじめ、毛沢東の政敵とされた人は、軟禁され、ひどい仕打ちを受けたことに加え、共産党の除名処分という名誉を全て失う屈辱にあい、非業の死を遂げていきました。(文革終了後、多くは名誉回復)
こうして、毛沢東は再び実権を握ることになったのです。
また中国古来の古典文化は資本主義の再来を招く恐れがあるものとして、それらを破壊することは、社会的に極めて意義のある善行であるとする価値観が紅衛兵に植え付けられていました。
その結果、中国の多くの文化遺産(建物、絵画、書物)がこの時代に取り壊されました。

その後、文革は惰性になっていきます。
毛沢東と林彪の対立があり、林彪の毛沢東暗殺計画を未遂に終わらせ(林彪は、亡命中の飛行機が墜落し死亡)、除名処分とした1973年あたりから、毛沢東は急激に気力が衰えはじめ、1976年、82歳で生涯の幕を閉じました。
文化大革命で失われた人名は、少なくとも2000万人以上とされています。
毛沢東の死後、上海組は党籍を剥奪されることになります。
鄧小平の職務回復が実現したのは1977年でした。
その後、1980年に劉少奇の名誉が回復されたほか、当時走資派とされ迫害された多くの人の名誉が回復されました。
そして鄧小平による開放路線が始まり、中国の市場経済化が動き出します。
それからの中国の急速な発展は、ご存知の通りです。
あわせて読みたい
まとめ
現在の中国政府は、過去の毛沢東の誤りも認めています。
しかし、功績の大きさが際立ち、今でも否定されることは許されない英雄の位置付けにあります。
列強から国を救い、国を統一したという功績はあまりにも偉大だという解釈です。
共産党がこれだけ揺るぎない地位を確立している背景も理解できるかと思います。
今の中国政府にもつながります。
2018年の全国人民代表大会では、国家主席の任期制限を撤廃する憲法改正を承認しました。
これにより、習近平が長期にわたって国家主席の座にとどまることが可能になります。
また、「習近平氏の新時代の中国の特色ある社会主義」と呼ばれる思想が憲法に追加されました。
憲法に名前が刻まれるのは毛沢東以来2人目だそうです。
習近平への権力集中はしばしば毛沢東と重ね合わせて考えられることがあります。
それほど今の中国で起きていることは重大なことであり、今後の動向次第では日本にも影響が出てくるかもしれません。
そういった意味でも、中国の近代史を理解しておくことは、日本人にとって必要なことであると言えるでしょう。
以上、ここまで読んでいただいてありがとうございました。
あわせて読みたい