土方歳三から考える真のリーダー像、浪士集団新選組をまとめた男とは?

こんにちは!Jimmyです。

今回のテーマは、新選組の副長、土方歳三から考える真のリーダー像です。

 

私の場合は、高校生の時に司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んだことで興味を持ちました。

最近では、大河ドラマや、アニメ、キャラクターなどを通じて知っている人も増えているようです。

何れにせよ、現代でも大変人気のある人物です。

 

イケメンで、強かったということも事実ですが、烏合の衆から結成された新選組をまとめたリーダーシップは、特筆すべき土方歳三の魅力であると言えます。

今回は、そんな土方歳三のリーダーシップの本質を紹介します。

土方歳三のリーダーシップの真髄

土方歳三から学ぶことができるリーダーシップの真髄は、以下の3点です。

  • 武士としての生き方を貫くというブレない信念
  • 損得になびかず、地位名声も追わないという人格
  • 責任をとる、信じた仲間は最後まで信頼するという覚悟

以下に一つずつ解説します。

 

全てはここから!ブレない信念

”武士としての生き様を貫くこと”

これこそが土方歳三の信念であり、どんな場面でもブレることはありませんでした。

 

戦術や組織論など、新しいことを柔軟に取り入れ対応していたことで知られていますが、芯となる信念は一貫しています。

それがあってこそ、厳しい軍中法度(組織における規則)を課し、自分を厳しく律し、時には鬼の副長として厳しい粛清も実施できたのです。

 

時代は、まさに幕末の動乱期です。

局面は目まぐるしく変わり、新選組の隊士も一筋縄にはいかない者ばかり。

当然、難しい判断を迫られる局面が多かったはずです。

 

簡単に「局面が変わる」と書きましたが、

農民が武士になったり、西洋の文化が入ってきたり、官軍が賊軍になったり、将軍様が戦の途中で逃げ出したり。

天変地異かと思えるような考えられないことが次々と起きていた時代です。

 

迷い、悩み、自分の立ち位置がわからなることも、普通の人間であればあって当然です。

そのような中で、ブレることなく状況判断し、組織を引っ張り、武士としての生き様を貫いた土方歳三の信念には驚嘆せざるを得ません。

 

土方歳三の生涯と新選組での出来事は後半にポイントを書きますが、土方歳三は武士ではありませんでした。

農民の生まれです。

 

幼い頃から、武士に強く憧れていました。

農民であることに対する強いコンプレックスがあったと言われています。

千載一遇の機会を得て幕府の元に取り立てられ、新選組が結成されますが、

そこには武士としての生き方を愚直なまでに貫く決意をした武士・土方歳三が完成していたのです。

 

損得に動かず、地位名声も追わず

信念あってのリーダー土方歳三であるということを説明しました。

そのリーダーの真髄は、損得に動かず、地位名誉にもなびかないところにあります。

 

田舎の農民が武士となり、次第に結果を残し、評価を得るに連れて、待遇はよくなりました。

しかし、土方歳三の目が曇ることはありませんでした。

 

あくまで武士としての生き様を貫くことを意識し、偉くなって家臣を抱えることや、金銭的に充実することに気をとられることはなかったということです。

自分がどんなに認められても、局長は近藤勇。

近藤を出しぬこうなどとは微塵も思わなかったのでしょう。

近藤勇が土方歳三を最も信頼していたのも頷けます。

 

近藤勇も、人格者としての評価はありますが、新選組が成果を出すにつれて、振る舞いや考え方に少しずつ変化が出てきました。

隊士を家臣だとみなしている、自分が偉い人間であるという意識が言動にも出るようになり、他の隊士からの反発を招きました。

所属先である会津藩に、隊士の一部が、近藤の切腹を要求したこともあるほどです。

 

近藤にしても、危険を冒して京都に出て、命をかけて戦い、そして認められたという背景があります。

そのような態度になることが多少あっても致し方ないという印象も受けます。

 

現代の世の中で考えても、損得に動かず、地位も求めずということがいかに難しいか、それを実践していた土方歳三のすごさが際立ちます。

 

なお、戦局は明らかに新政府側(薩長側)に有利になっていきました。

それでも状況を嘆かず、最後まで幕府軍として戦い、死ぬ覚悟であったことも、土方歳三らしい武士の生き様です。

 

他人のせいにしない、信じた仲間への思い

厳しいことも実施する代わりに、自分の言ったことに責任をとる、

そして自分に一番厳しかったことも土方歳三の特徴です。

 

新選組を脱退するなど、決められたルールに違反をするようなことがあれば切腹や過酷な拷問が待っているのですが、

それ以外で、土方歳三は、隊士を無碍に扱うようなことはありませんでした。

失敗があったとしても、それを隊士のせいにすることはなかったと言われています。

 

むしろ信頼できる仲間への思いは強かったと言えます。

先ほど述べたように、近藤勇が成果を出すにつれて天狗になり、他の隊士から反発されるような言動をした時も、自分のせいでそうさせてしまったと、近藤をかばっているような場面もあります。

そもそも、近藤がいる間は、一貫して近藤勇を男にしよう、新選組を有名にして、近藤勇の名を世の中に知らしめようとする気概に満ちていました。

 

討ち死にした仲間、切腹を命じられた仲間に対して、涙を流して悔しがっていたという話もあります。

冷酷なだけの人間性ではないということがわかります。

このような人格があってこそ、混沌の時代に、人を従えるリーダーとして活躍できたのでしょう。

 

厳しいだけのリーダー、責任逃れをするリーダーであれば、今の時代でも人を従えることはできません。

この時代であれば、瞬時に瓦解していたことでしょう。

なぜ土方歳三のリーダーシップに注目すべきなのか?

烏合の衆の集まり新選組をまとめたという事実

一筋縄にいかない浪士集団をまとめ上げたという事実は、リーダーの資質として大いに注目すべきです。

 

新選組は、烏合の衆から構成されました。

清河八郎の策によって、浪士(所属先がない武士)を中心に募集された剣豪集団。

それが新選組のルーツです。

 

失うものは何もないという人もいたことでしょう。

所謂アウトロー気質な人も少なくなかったはずです。

一癖も二癖もある人たちを組織としてまとめていく必要がありました。

 

そのような集団で、厳しい規則など作っても、簡単に従ってくれるはずはないのです。

農民出身の土方歳三が、軍中法度を作り、それを自他共に遵守させたのは、並の人間ではできないことだと言ってよいでしょう。

 

事実、新選組と同じルーツである新徴組(清河八郎に従い江戸に向かった浪士により結成)は、清河八郎の暗殺後統制がきかなくなり、行動も荒れ、すぐに分裂していきました。

 

目的を見失わず、秩序を乱す者は厳しく粛清し(芹沢鴨、新見錦などの芹沢派)、規律を保っていたことがわかっています。

 

剣の腕なら近藤、沖田、永倉

土方歳三は確かに剣の達人であったと思います。

多摩に生まれ、天領を守る立場としての思いがあり、幼い頃より剣術に励んでいました。

 

一方で、近藤勇の天然理心流の道場に入門したのは20代に入ってからでした。

10代の頃は、丁稚に出されたこともありました。

帰ってからも、家業を手伝い、薬を売り歩くなどしながら剣術を学ぶといった具合でした。

 

20代で近藤の道場に入門した時には、すでに沖田総司などが天才的な腕前を発揮していました。

土方歳三も剣の上達は遅くなかったことに加え、度胸や勝負勘のようなものは人一倍だったと言われています。

 

一方で、純粋に剣の腕で考えれば、少なくとも、沖田総司、永倉新八、近藤勇にはまず及ばなかったでしょう。

その他、新選組は、斎藤一、藤堂平助、原田左之助など実力派揃いです。

なお、途中で粛清されましたが、近藤とともに当初局長を担っていた芹沢鴨も、剣は相当な腕前であったようです。

 

剣の実力だけで副長に選ばれ、新選組を引っ張っていったわけではないと言えます。

 

鬼の副長の素顔

鬼の副長と恐れられながらも、実は仲間思いで人格者であったことは先ほども少し触れました。

幕府のもとで正式に武士になることが許可され、憧れであった武士として生きるためには、新選組は甘い組織ではありませんでした。

癖も実力も強すぎる組織です。

 

厳しくならざるを得なかったというのが事実でしょう。

いくら古くからの隊士とは言え、永倉新八や藤堂平助などは、近藤勇をよく思っておらず、気を抜ける状態ではありませんでした。

斎藤一も然りです。

 

鳥羽伏見の戦い以降、幕府軍は劣勢に立たされますが、新選組からも犠牲者を数多く出しました。

近藤勇は、1868年、新政府軍に包囲され捕縛、後に斬首されます。

戦局が進む中で、永倉新八や原田左之助も離脱し、沖田総司も肺結核で死亡します。

 

土方歳三は、その後も大鳥圭介らと合流し、幕府軍として最後まで戦うことになるのですが、

戊辰戦争の頃の土方歳三は、穏やかで優しかったという証言があります。

 

もちろん厳しい状況では、非情なこともありました。

幕府軍を指揮する中で、恐れをなして逃げ出そうとした兵士を、その場で切り捨てることもありました。

 

一方、その切ってしまった仲間を不憫に思い、せめて墓を作ってあげてほしいと、

泣きながら部下にお金を渡していたそうです。

これこそが土方歳三の人間性の本質であり、仲間を思う気持ちは新選組時代から強いものがあったと思われます。

 

新選組を率いる時は、必要に迫られ、鬼としての役割を演じていたと考えることもできるでしょう。

そうでなければ、近藤、沖田はもとより、他の隊士からの信頼を得られるはずがありません。

土方歳三の生涯と新選組の歴史(ポイントまとめ)

ここまで、土方歳三のリーダーシップの真髄を書いてきました。

以下に、土方歳三の生涯と新選組の歩みを、歴史の流れも交えて理解できるよう簡単にまとめます。

 

多摩の農民として生まれた土方歳三

先ほども触れましたが、生まれは多摩(東京西部)の農民です。(1835年生まれ)

幼い頃から武士に憧れ、剣術を学んでいました。

10代で丁稚に出ますが、長続きしませんでした。

2回目の丁稚では女性問題でクビになったようです。

昔からイケメンであり、女性からモテたようです。

 

20代で初めて近藤勇の道場を訪れ、天然理心流に入門します。

剣術の腕は確かでしたが、その時すでに沖田総司などは相当な腕前であり、その後も剣術では、近藤、沖田などにはかなわなかったようです。

 

1862年、清河八郎の発案により、全国から浪士を募集して将軍の護衛の部隊を作るという知らせが近藤の道場に届きます。

武士に憧れていた土方、近藤にとって願ってもないチャンスでした。

さらに、多摩地区は幕府の天領とされており、幕府を警護するということは、この土地の人であれば名誉に感じることは間違いなかったはずです。

こうして、近藤一派は、京都へ赴くことになります。

沖田総司、山南敬介、井上源三郎、永倉新八、斎藤一、藤堂平助などの実力者も一緒です。

 

新選組結成

集まった浪士は234名、このうち大半が清河八郎の指示に従い攘夷名目で江戸に向かいますが(これが清河八郎の当初の目的)、

あくまで将軍護衛が目的だと主張した近藤一派と芹沢一派は京都に残ります。

この京都に残った浪士組が新選組と名付けられ、京都の警護を担当することになります。(会津藩預り)

背景には、武力での倒幕を目指す長州の台頭がありました。

 

当初は芹沢鴨と近藤勇が局長、新見錦と山南敬介、土方歳三が副長でした。

芹沢は素行が悪く、人は切るは、金はたかるはで評判が悪い人物でした。

1863年、会津藩より処分するよう指示があり、近藤派により暗殺されます。

同時期に、新見錦も切腹させます。

(なお山南敬介は1865年、脱走の罪で切腹。経緯には諸説あり。)

 

池田屋事件と関連事件

新選組の最大の功績といえば、池田屋事件です。

当時、討幕派である長州藩は、天皇の拉致、御所への放火、一橋慶喜の殺害など過激な計画を立てていました。

これを阻止するのが新選組の役目です。

 

新選組は、池田屋という旅館に、討幕派が潜伏していることを突き止めます。

 

近藤、沖田、永倉、藤堂の4人が中に入り戦闘が開始されます。

中には討幕派が30人ほどいたと言われています。

 

藤堂平助は顔面に怪我を負いますが、土方隊の到着もあり、新選組の強襲は成功します。

なお、ここで沖田総司が吐血して戦線離脱とする話が有名ですが、真偽のほどは疑わしいところもあるようです。

 

諸説ありますが、討幕派の9人を殺害、4人を捕まえたとされる説をここでは採用します。

その中には、討幕派の中でも影響力の大きい藩士が多く、幕府にとって大変な朗報でした。

一躍、新選組はヒーローとなったのでした。

 

この頃、土方歳三は、軍中法度などの新選組におけるルール作りを本格化させたとされています。

局長は近藤勇ですが、実質的なルール作りや取り仕切りは土方歳三が担っていたようです。

 

しかし、池田屋事件により討幕派はさらに刺激されます。

引き続き新選組は、京都を警護し、討幕派と戦います。

 

攻撃はエスカレートし、その後、歴史上唯一の「御所発砲」という事件も起こります。

そして幕府は、二度にわたる長州征討を試みますが失敗に終わります。

 

尊皇佐幕派の中心であった孝明天皇の崩御、岩倉具視による偽の討幕勅許などで、立場を危ぶんだ徳川慶喜は1867年、大政奉還を決定。

これにより、幕府側は、薩長による武力での討幕の大義名分を消そうとしましたが、

薩長は1868年、「王政復古の大号令」により、幕府と慶喜の権力を全て奪い、武力制圧に出る手段を画策します。

 

こうして、鳥羽伏見の戦いへと発展していきます。

 

鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争

徳川慶喜側も対策を練り、なんとか武力抗争にならないよう画策しますが、薩摩藩が挑発を仕掛けます。

江戸で略奪行為が縦横無尽で行われ、庄内藩なども攻撃されます。

こうした無法行為が続く中、ついに旧幕府軍と薩長軍が軍事で戦うことになります。(鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争の始まり)

 

ここで、あらかじめ薩長軍に用意されていた錦の御旗が登場し、完全に官軍と賊軍が逆転。

錦の御旗に攻撃するということは、天皇を敵にすることを意味します。

幕府軍の直接的な敗因ではないかもしれませんが、これによって幕府軍の士気が相当に揺らいだのは事実のようです。

 

錦の御旗を見た徳川慶喜は、戦局を投げ出し江戸に逃走。

徹底抗戦を訴える新選組でしたが、”司令長官”が逃げた幕府軍としては引き下がるしかありません。

あえなく江戸に向かうことになります。

 

なお、この戦いを経て土方歳三は、「刀槍の時代にあらず、砲にあらざれば不可」として洋装に変えていったと言われています。

 

その後も抗戦のつもりでいた新選組でしたが、勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が決定します。

 

その後、近藤勇の捕縛、斬首、沖田総司の病状悪化、永倉新八、原田左之助の離脱もあり、新選組は事実上解体となります。

 

土方歳三は、その後も徹底抗戦の構えで、幕府軍として戦います。

宇都宮、会津、そして蝦夷(北海道)と幕府軍は敗戦を繰り返します。

 

最後に、五稜郭で銃撃を受けて戦死。

 

最後まで武士として、本当の武士よりも武士らしく信念を貫き通した35年の生涯に幕を閉じました。

 

新選組と土方歳三については、司馬遼太郎の「燃えよ剣」がお勧めです。

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まとめ

土方歳三から学ぶことができるリーダーシップの真髄は以下の通りです。

 

  • 武士としての生き方を貫くというブレない信念
  • 損得になびかず、地位名声も追わないという人格
  • 責任をとる、信じた仲間は最後まで信頼するという覚悟

 

浪士集団である新選組をまとめ上げ、激動の時代、武士としての信念を貫き通した土方歳三には、今でも多くの人を惹きつけています。

「生き方がかっこいい」というありふれた言葉にはなりますが、上記に加えて、リーダーシップの真髄の一つに加えておきたいと思います。

 

今の時代にも通用するリーダーとして必要な条件を学ぶことができる人物です。

激動の時代となった現代、再度土方歳三の人気が上昇している背景には、このようなリーダーの存在を社会が求めているからなのかもしれません。

 

以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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