我以外皆我師
こんにちは!Jimmyです。
「我以外皆我師」・・・われ以外、皆我が師。
敢えて解釈するまでもないですが、自分以外の人、モノはみな学ぶべき存在であるという意味です。
端的な表現でわかりやすいと思い、目に留まりました。
人は、知識や経験を積むほど、学ぶ対象を限定してしまう傾向があると言えるでしょう。
「これについては、もう知っているからよい。」
「もう十分、ここで(あるいはこの人から)学ぶべきことはもう何もない。」
このような心持ちになることは、誰にでもあるかと思います。
最初は謙虚な心を持っていた人でも、経験を積み、成功し、年を重ねていけば、聞く耳は次第に小さくなっていきます。
その時点で、素晴らしい実績と実力を兼ね備えている人であっても、確実に言えることがあります。
それは、他者から学ぶ意識が小さくなるほど、成長や変化のチャンスが狭まるということです。
日常においては、つい忘れがちですが、この「すべてから学ぶ態度」は時々でも思い出しておきたい教訓です。
他者から学ぶ態度の大切さ
三人行わば必ず我が師あり
他者から学ぶことの大切さを示す言葉は、古くから存在しています。
冒頭の言葉も、遡れば、論語にて同じことが記されています。
子曰 三人行 必有我師焉 擇其善者而從之 其不善者而改之
(論語)
書き下し文
子曰く、三人行なわば、必ず我が師有り。その善き者をえらびてこれに従い、その善からざる者はこれを改む。
解釈
一方、悪い手本を見つけて、自分と照らし合わせて考えるということは、意外と少ないかもしれません。
例えば、大きな声で理不尽なクレームを店員にぶつけている人がいたとします。
「大人げない、みっともない・・」
「おかしな人もいるものだ、関わらないようにしよう・・」
こう瞬発的に思うことは誰にでもあると思います。
この時点では、自分は絶対にこの人のようなことはない、あり得ないと思っているはずです。
そうである限り、悪い手本から「学ぶ」ということにはなりません。
一見、おかしな言動をする人であっても、何か事情があったのかもしれません。
自分も、似たような状況になる可能性について、少しだけでも考えてみると、意外と思い浮かぶ反省材料が見つかるものです。
クレームを公衆の面前で言うことはなくても、些細なことでムキになり口論になるような経験は多くの人がしているはずです。
冷静に見たときに、どう見えるのか、自分もこう見られていたのかもしれないと考えることができれば、教訓、戒めとして自分の学びに蓄積されます。
賢者は愚者に学び、愚者は賢者に学ばず
賢者は愚者に学び 愚者は賢者に学ばず
賢者は愚者から学ぶというように、賢い人ほど、多くのものごとから学ぼうとする姿勢を持ち、教訓としています。
逆に、愚かな人は、学ぶべき余地は大変多いにも関わらず、それに気づかず学ぶことをしません。
今の自分に、学ぶことはあまり多くないと思った瞬間、自分が愚者であると思い直したほうがよいのかもしれません。
愚者は経験に学び 賢者は歴史に学ぶ
同じく、このような言われ方もします。
愚かな人は、自分で経験したことでしか学べないが、賢い人は、過去の歴史、つまり他者の成功失敗事例から学ぶことができるということです。
もちろん、自分の経験から学ぶことは一番効果的です。
大変重要ですが、一人で経験できることにも限界があります。
やはり、周りの出来事を自分ごととして考え、教訓とする姿勢が必要と言えるでしょう。
誰からも学べる
自分以外のあらゆるものから学ぶことができると意識すれば、意欲や好奇心にもつながるはずです。
学ぼうとする意識があるかないかで、全く違ってきます。
小さな子どもや、赤ちゃんからでも学ぶべきことは多くあります。
純粋に笑っているところを見ていると、自分の笑顔の少なさ、笑うことの大切さ、人に及ぼす効果に気付かされます。
仕事で、自分よりもずいぶん若い人と話しているとき、相手の話し方がたどたどしく、表情も硬いように思ったことがありました。
もしかしたら、私の表情や話し方が、相手に対して圧迫感を与えていたのかもしれません。
私自身、自分では相手に圧迫感を与えるような人柄ではないと思っていましたが、確実に年は取っているのも事実。
20代のときに、アラフォーのおじさんがどのように見えていたかを考えると、話し方や選ぶ言葉に工夫の余地はあることに気づきます。
最後に 学ぶ姿勢があれば返ってくる
あらゆる物事が、学びの機会となるということは、折にふれて思い出したい教訓です。
学びにすることができるかどうかのポイントは、学ぶ姿勢の有無、ただ一点です。
真摯に学ぶ姿勢があれば、人であれ、物であれ自然であれ、何かしらの教訓を返してくれます。
感謝の習慣にもつながる大切な考え方かと思います。
以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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