坂口安吾の「堕落論」を現代社会で考える

こんにちは!Jimmyです。

敗戦後間もない日本人の思想に、大きな影響を与えた坂口安吾の「堕落論」。

価値観の大転換期という意味では、現代も終戦時期の日本に近いものがあるのではないかと思います。

そこで、堕落論の思想を、現代に当てはめて考えてみることにしました。

まずは、堕落論とは何かについて、おさらいから入ります。

堕落論とは?

堕落論は、1947年に発行された坂口安吾の代表作です。

第二次世界大戦により、従来の価値観が崩れ去った日本において、いかに考え生きていくべきかについて書かれています。

 

当時の日本人が持つべき指針として、賛否両論ありながらも、大きな影響を与えた作品です。

文学というより、思想書のような意味合いが強い本です。

 

短いという意味では読みやすい作品ですが、内容は濃いと思います。

そして、わかりやすくはありません。

「堕落」することを勧めているわけですが、世捨て人になればよいという主張ではありません。

堕落論のポイントと考察

人間の本質 堕落するが堕ちきれない

坂口安吾は、人間の本質こそ「堕落」であるとしています。

国のために戦い、生き延びた勇敢な戦士たちは、闇屋(非合法な商売)をして生活をしている。

戦争で夫を亡くした未亡人も、半年もすれば位牌の前で拝むことも事務的となり、やがては別の人に思いを寄せることになる。

 

人間は、元来がそういうものであるということです。

だからこそ、わざわざ武士道という規律を作り出し、国のために命を捨てることを美徳とする概念を浸透させたのです。

わざわざ、未亡人の恋愛を描く執筆を禁止し、貞操観念からの逸脱を抑制するわけです。

天皇制も、統制の手段といった目的の中で、必要とされてきました。

 

一方、人間は放っておけば、いくらでも堕落していくかというと、そうでもありません。

人間は堕落をするものであるが、堕ちきれない、堕ちきる強さがないとされています。

だから、何かしらの社会規律が必要とされ、構成されていくという流れになります。

そういったものにすがりたくなる、救いを求めたくなるのが人間の弱さということでしょう。

 

主張のポイント「生きよ堕ちよ!」

主張のポイントを一つ抜粋するとすれば「生きよ堕ちよ」になるかと思います。

生きて、堕ちていく、この手順のほかに、真に人間を救いうる近道はないとしています。

 

終戦により、従来の絶対的な価値観が意味をなさなくなった時、新たな指針を人は求めました。

生き方や正しさの概念が、全くわからなくなった状態に近いと言えるでしょう。

 

そこで、「生きよ堕ちよ」となります。

必死に生きて堕ちた先に、本当の自分の感情があり、本当の生き方を発見できるという主張です。

そうでもしないと、すぐに前時代的な枠組みに逆戻りしてしまうということです。

 

そのため、兵士が闇屋になり、未亡人が新たな恋をし、堕落することは必要な過程であるということになります。

堕落し続けることができない人間は、いずれ新たな規律を探し始めます。

それを見つけるためには、まず正しく堕ちきることが必要とされています。

 

自分で考え切り拓くこと

堕落することを肯定する坂口安吾ですが、ここで言う堕落は、無思考とは相容れない概念です。

無思考であることに対しては、警鐘を鳴らしています。

努力をしなくてもよい、現世での幸福をあきらめればよいといった、世捨て人のような考え方ではありません。

自暴自棄になり、好き勝手に生きることを勧めているわけでもありません。

 

むしろ、坂口安吾の主張には、すさまじいエネルギーを感じさせます。

 

堕落とは、言わば好きなものを好きと正直に考え、実行することと言えます。

それには、これまで当たり前とされてきた常識や社会規範を疑い、捨て去る必要があります。

その過程で、周りと違う言動が増え、孤立することもあるでしょう。

 

堕落していくというのは、孤立しながらも、自分の正しさをとことん求め、考え、実行する苦難の道でもあるのです。

一人荒野を歩くようなものであると表現されています。

 

堕落という言葉に注意

そもそも、勘違いを招きやすい表現であると思います。

終戦直後の状態だからこそ、この言葉を用いたのではないかと勝手に推測しています。

当然、焼け野原となりモノがないわけですから、生きていくためには闇屋も出てくるでしょう。

どうしても、倫理的によからぬことをする場面も出てきます。

 

そういったやむを得ない行動を肯定し、自分の生き方を自分で見出すことを主張するには、当時は「堕落しよう」という言葉が響いたのだと思います。

 

当時の国家主義的な常識を捨て去るわけですから、堕落と表現したほうが、イメージにも合っていたのかもしれません。

 

しかし、坂口安吾が言っている堕落は、本来の堕落とは少し違います。

堕落は、悪に走ることという意味合いがありますが、堕落論では悪を全面的に推進しているわけではありません。

むしろ、正しさを求めるためのプロセスと位置づけています。

与えられた常識に頼らず、自分の正しさを考え、自分で人生を切り拓けと言っているのです。

 

本当の意味で堕落してしまったのは、意味のない常識に縛られた日本という国家全体であったということです。

そこから与えられた、上っ面だけの愚にもつかない救いでは、人は救われません。

そこから抜け出すために、まずは個人が本質的に考えることを説いたのです。

もちろん旧識に抗うことは困難を伴いますが、それを乗り越えなければ、正しい道は得られないということです。

 

堕ちた先に何を見つけたのか?

戦後70年以上が経ちましたが、当時の人たちは、結局正しく堕ちていったのでしょうか。

そして、その先に何か自分なりの正しさを見つけていったのでしょうか。

当然、そこまでは検証されていませんが、坂口安吾の言う「堕落」を通して、考えていった人は多くはなかったでしょう。

 

自分で切り拓くというよりは、GHQを中心に新たな価値観の形成が実施されました。

そういう意味では、堕ちた先に、人が何か素晴らしいものを見出したかはわかりません。

結局押しつけられただけなのかもしれません。

 

何れにせよ、日本はもがきながら、外部環境も有利に働きながらではありますが、経済大国への道を見出しました。

しばらくの間、堕落論自体、過去の思想となっていったとも言えるでしょう。

しかし、今になって、再度社会全体が堕落している状況に近づいているように思います。

今を考えるための堕落論

戦時中と似たような社会構造

国家全体として、思想を失い、本質的なことを考えられない状態。

こういった状況下で、日本は敗戦への道を進んでいきました。

 

この状況はまさに、今の日本と重なる部分が多くあります。

拝金主義のもと、道徳、思想の衰退は顕著です。

権威と既得権益に群がり、自分を正当化することに長けた人が、見せかけだけの正義をもとに、日本の中心を牛耳っているのではないか。

そう思えるような事例には事欠きません。

 

支配層のみならず、労働世代も以下のようなイメージです。

われわれはまさしく失われた世代だ。ただし”迷子の世代”と呼んだほうがいい。日々あくせくして働きながら、どこにもたどり着かない。きょろきょろと周囲を見回してお金を探しているだけだ。それがわれわれの唯一の基準になっている。そこには確固たる信念も倫理規範もない。

「人の上に立つ」ために本当に大切なこと ジョン・C・マクスウェル著より

 

目の前にあるのは、戦争中と同じく、個人の思想が入る余地のない、資本主義の猛威です。

メディアについても政府が私物化しているとさえ言われるようになりました。

 

本当はおかしいと思いながらも不正に手を染めていく人、

組織の方針に反対できない人、

市場原理と自己責任論の名の下、諦めてしまう人、

そして精神的な疾患を患ってしまう人、

このような人が増えています。

 

そして、環境問題や格差問題が深刻化する現状を、何とかやり過ごそうとする意図も、官民問わず強く感じます。

膨れ上がった、国家全体がしがみついている虚像としての正解から抜け出す、すなわち「堕落」することが必要な時期にきているのかもしれません。

 

現代社会で必要な堕落とは?

先ほども少し触れましたが、堕落という言葉は、現代では合わないかもしれません。

戦争により、焼け野原になっているわけではありません。

物質的には、今の日本は満たされています。

(それでも、精神的には、ある意味戦後よりも貧しい状況にあると言えるかもしれませんが)

 

目の前の生活をするために、闇屋に走ることを促す必要もありません。

 

だからこそ、堕落という言葉ではイメージがつきづらいのですが、本質的な主張は同じです。

今こそ、自分の力で考え、本質的に正しいと思うことを個人で実行するべきです。

苦しむことも批判され孤独になることがあっても、自分で考えた道を進む以外に、救いの道はないということになります。

 

自分に正直になり、これまでの間違った常識を捨てる、それが正しく堕ちるということです。

人間は堕ち続けることはできません。

新たな生き方を発見することを目指しつつも、また何かの規律を作り縛っていくことになるでしょう。

それでも、まずは旧識をふるい落として考えないと、前時代に逆戻りするしかありません。

 

困難ではありますが、今の時代こそ、精一杯考えることが必要なのではないでしょうか。

 

自分で考えるべきこと(おまけ)

  • 正当な報酬・利益とは何でしょうか、本当に今のシステムは正当でしょうか。
  • 社会の役に立っている組織に利益が渡るようになっているのでしょうか。
  • 今社会にある組織、企業などのあり方は正しいでしょうか。
  • 平等とはどういった状況を指すのでしょうか。
  • 現行の社会システムがなくなったときに、幸せに生きていくのに何が必要でしょうか。

 

資本主義の枠組みから少し離れて考えれば、現在の常識に疑問を持つこともたくさんあるでしょう。

まさに戦時中と同じです。

どこかでおかしいと思いながらも、不利益を被る、おかしいと思われるから声に出せないという人もいます。

 

既存の枠組みを捨て去り、自分の正しさを見つけるというのは、相当な努力と覚悟が必要であると坂口安吾も言っています。

ただ、与えられるのを待つだけでは、また同じような隷属が待っているだけでしょう。

考え抜いた人だけがたどり着ける境地なのかもしれません。

 

戦後は、やむにやまれず闇屋になっていった人もいたことでしょう。

そこで否応なく考えさせられたという状況もあり得ます。

しかし、現在では、意思を強く持たないと、既存の枠組みに疑問を向けることはできません。

 

戦争時よりは複雑な状況ではありますが、闇屋になる必要はありません。

とことん考えることはできるはずです。

何れにせよ、世界に大転換が起きたときには、否応なく向き合うことになりそうです。

 

以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

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